いざ冬のロシアへ冬の情景と楽しみ 入院も貴重な経験何てったってダーチャ
祝いの日治安 ロシアの結婚ウラジオの日本人
「ロシアの思い出」のページを出るときはBGMを止めてください。 BGMストップ

入院も貴重な経験

ゴーリキー劇場前の路上でキュウリを買いました 生まれて初めての入院は、2回目の冬のこと。
腎臓が炎症をおこし、1週間の入院、2週間の自宅療養でした。
辛さと有難さをしみじみ感じた出来事でした。
また、ただでさえ少ない日本語の授業が休講になり、残念さ倍増でした。

【写真は93年3月ゴーリキー劇場前の路上で。
貴重な生野菜、きゅうりを計り売りで買う】

バカは病気にならない?!

『バカは風邪を引かない』などという言葉は、一体誰が言い出したのでしょう。ただ『バカが風邪を引いたら大変だから、風邪を引かないように』ということは、声を大にして言えます。 ここでいうバカとは、知識がない、処方が分からない、そして言葉がよく分からないという意味も含みます。

救急車で病院へ

朝、熱が出たので学校を休みました。風邪だろうと簡単に考えていました。しかし、校医が往診してくれて薬を飲んでも、一向によくなりません。熱は上がって40度近く。その夜は吐きつづけ、トイレに行くのもフラフラ状態。背中をさすってくれる人もおらず、苦しい事を訴える日本人も近くにはいませんでした。
 夜が明けて、隣のリュドミラ先生が救急車を呼んでくれ、街はずれにある大きな病院まで連れて行ってくれました。

急性腎盂炎、その原因は?

細菌による炎症なのですが、病院の担当医師は「インフルエンザ」からきたといい、後日領事館に来ていた外務省の日本人医師から聞くと「膀胱炎」からきたというのです。
 膀胱炎には思い当たる節がありました。他の学校に赴任したばかりの日本人教師に、生活の助けになればと、食料品店などを案内して、街の中を歩き回りました。その冬最後の寒波で、足元から寒さが体全体に染み渡るようでした。トイレに行きたいのを我慢して3,40分外にいたのです。その後すぐ、頻繁に尿意をもよおすようになりましたが、痛みは1回だけでしたから、気にとめませんでした。どうも、そのとき膀胱炎をおこし、腎盂炎に移行したようです。

お任せ患者

病気や処方のことなど全く知識がないし、その上言葉も分からないときているから、医者と看護婦、学校関係者にすべてお任せです。病院側にとって面倒な患者なのか、楽な患者なのか分かりませんが。
 ここで、医療に不安を抱くなら、すぐさま日本へ帰って治療を受けるべきでしょう。
 何年後かに、ウラジオストクではないのですが、日本人が胃潰瘍で手術して死亡したということがありました。もし、そういうことが既にあったとしたら、私はお任せ患者にはならなかったかもしれません。

薬と機器

ロシアの医療は基本的には信頼していました。しかし、日本で聞いた「ロシアの医療は技術はあっても、機器や医薬品がよくない、あるいは不足している」という話を思い出しました。
 もらった幾種類もの薬を改めて見てみると、スロベニア、チェコスロバキア、ポーランドなどのものがほとんど。そういえば、点滴も一部アメリカのものでした。
 中国人の先生が見舞いに来て薬を見、「自分も風邪を引いたときこれをもらった。この抗生物質は以前中国でも使われていたが、今はもう使われていない。よくない薬だ」と言いました。
機器は外国から援助されたものなのか、新しいものもありました。レントゲンは大きくて新しく、超音波で診断する機械は日本製でした。

注射

 注射でたいへんな痛い目にあった時は、ロシア語が話せなくて悔しい思いをしました。看護婦のへたな注射で、注射液が血管の外に漏れたのに、看護婦は私が動いたせいだと叱るのです。
 動いてなどいないのに「そうじゃない」としか言い返せないクヤシサ! 医者まで「面倒を見てくれる夫が必要だ」などと余計なオセッカイ。「泣きっ面に蜂」です。
 注射といえば、後に日本人の間で神経質になったことの一つです。長期滞在者は、ロシアの機関に出かけてのエイズ検査が義務付けられました。(何年からだったか覚えていません) 注射針が使いまわしているものだと、それで感染する可能性もあるわけです。 衛生面で問題が無きにしも非ずという時代でしたから。それで、日本から使い捨ての注射器を持参したものです。 その後、ビザ申請時に日本で検査した証明書を添付するように変更されました。2003年現在どうなのかは知りません。

病室

最初は6人部屋に運ばれました。古い「沈むベッド」です。 すぐ後、リュドミラ先生と講座長の頑張りで、特別室(?)に移ることができました。 最新のベッド2台に、術後の患者がいました。そこにmえむ用に臨時の小さいベッド(もちろん沈まない)を入れてくれたのです。 外国人の先生だからとか何とか言って交渉してくれたのです。 あとで推察するに、二人の患者は、単に術後だからということだけではなくて、有力者のコネあってのもののようでした。
病室から見える景色はきれいで、氷が少し残る湾の向こうに夕日が赤く沈んでいくのが最高でした。2日間は他の二人が退院して私一人。体は少し楽になって、花も果物もあるし、ホテル気分でした。

見舞い客

見舞い客ほどうれしいことはありません。彼らの優しさを、元気なときの何倍も感じ、感謝しました。 講座の先生方、日本人、学生が、食べ物や花などを持ってきてくれました。
領事館の文化担当者が来てくれたことは、大きな影響があったようです。「薬が必要なら持ってくる」と言ったものですから、医師は「治療するのに必要なものはすべてある」と答え、充分な薬をくれたのだと思います。
当時は薬が不足しており、患者の家族は病院から「患者にはこれこれの薬が要る」と聞くと、薬局などあちこち探し回り、コネも使えるだけ使って手に入れていました。時には高額な代金を要したこともあるそうです。私は身に余る治療を受けたということになります。

費用その他

医療費が高かったろうと思いがちですが、実は本人の負担額は0でした。 学校との個人契約では、住居と医療の提供が約束されていました。 それに、ソビエト時代には、住居・教育・医療は個人負担がなく、崩壊後もしばらくはその制度が続きました。職場が生活の単位です。
 この入院のほかに、やはり寒い時期に2度の医者通いをしました。坐骨神経痛で脚が痛かったり、耳たぶの神経が痛むとき、学校のある地域のクリニックに行きました。学生のターニャさんが親身になって、一緒に行ってくれ、通訳もしてくれました。治療と薬代で14,000円位かかりました。 もう一度は、首や肩、頭が痛い時でした。このときは、学生のコネで有名な医者を紹介してもらいました。 首の骨がちょっと変なようです。

このページの先頭に戻る
トップページに戻ります