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ロシアと言っても、すぐ対岸のウラジオストク市。
1993年1月から1998年12月までの6年間、日本語教師としてmえむはそこで働いていました。
帰国後、時間が経過するにつれ、脳裏に深く焼きついたものは残り、関心の薄かったことなどは消え去ります。
いざ冬のロシアへ 冬がくれば想い出す「近くて遠い国」『近くて遠い国』といえば「韓国だった」「北朝鮮だ」という人たちは多くても、「ロシア」という人は少ない、それほど近くて遠いのです。
ロシアの代名詞「モスクワ」は確かに遠い、そして「寒い冬のイメージ」は、さあ出かけようという言葉をしばしば飲み込ませます。 そのロシアへ真冬に初めて訪れました。 ロシアから石川県に帰って来て「隣の国へ行っていたんです」と言っても、3つ以内でその国を言い当てた人はいませんでした。みんなロシアという国を知っているのにもかかわらず、です。 【写真は、ウラジオストク市の市街地にあるパクロフスキー公園をバックに。
ソビエト時代は遊園地のあった公園に、小さなロシア正教会の教会が。】 東京でロシア人と出会う一人のロシア人女性アンナさんが、mえむの勤める新宿の日本語学校に入学してきました。彼女の保証人になったのは、2002年10月暴漢に襲われて命が失われた国会議員。
mえむは彼女に古いアパートの一室を提供して8ヶ月間、隣同士で過ごしました。1991年の夏、彼女は食い入るようにテレビでソビエト連邦が崩壊していく様子を見ていました。 彼女の保証人との出会いとロシア連邦の誕生が、ウラジオへ行くきっかけになりました。 氷点下23度の白樺並木mえむが初めてロシアの地を踏んだのは、1993年1月15日。ずいぶん暗くなったハバロフスク空港でした。ウラジオストクへの直行便がまだなくて、新潟からハバロフスクへ行き、そこで1泊してウラジオへ飛びました。12万円ほどかかったと記憶しています。
「雪の白樺並木・・・」と歌にあるロシア。mえむの第一印象は、夜の雪の白樺並木の幻想的な風景とひやっとした空気でした。夏より冬が好きなmえむには、その冷たさが身体に覚えこまれました。 困ったときの助け舟ハバロフスクで:言葉も分からず海外旅行にも慣れていないmえむを助けてくれたのは、乗り合わせた住友商事の方でした。入国手続などを教えてくれ、大きな荷物を運ぶのを手伝ってくれました。そして、迎えに来ていたインツーリスト(旅行会社)の人に会わせてくれ、おまけに、ウラジオの会社の出張所まで教えてくれるという親切さが、本当に有難かったです。
ウラジオで:翌日、ウラジオに向かいましたが、これまた到着が暗くなってからでした。ホームステイ先の日本語の先生が迎えに来ているはずでした。ところが、見当たりません。 置いた荷物を振り向き振り向きしながら、暗い中を車の窓をたたいて探し回りましたが見つかりません。ほとんどの乗客が迎えの車に乗って去って行き、うろうろしているのはmえむ一人になってしまいました。リムジンバスなどありません。何とも心細くなりました。 そこに、最後の車に乗っていた日本人と通訳のロシア人男性が、心配して声をかけてくれました。ホームステイ先に電話をしてくれ、彼らが連れて行くと連絡してくれました。石川県の中古車業界の人に夕食もごちそうになり、通訳にホームステイ先まで連れて行ってもらいました。この通訳は極東大学の学生で、後に学校で会うことになりました。 迎えの人が空港に出かけたのに会えなかったのは、飛行機が予定より早く到着したからでした。 mえむの不思議ないでたち後で振り返ってみると、ロシアを知らないにわか旅行者といった変な格好でした。
いろいろな人からプレゼントされた物で身を覆っていました。
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上部のカラフルなキリル文字(ロシア語の文字)は、ズドゥラーストヴィチェと読み、意味は「こんにちは」。
さんから素材をいただきました。