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冬の情景と楽しみ
気 温は、氷点下15〜17度ぐらいが普通の冬の気温です。一桁になると「暖かい」という言葉が出ます。ウラジオストクの緯度は北海道と同じだし、北海道の寒さを知っている人には、格別の寒さではないでしょう。
雪は、11月半ばに初雪がありますが、いったん溶けます。そう多くは積もらないので街中を除雪車が通ったあとを見たのは6年間で数回だけです。雪質は水分を余り含まないさらさら雪なので、傘は誰もさしません。 風は冬のウラジオ名物の一つとでも言えるでしょう。湾に面し、起伏の激しい地形の町です。海から吹き上げる強くて冷たい風は、身体の芯を吹き抜けていくようです。風に向かって歩くときは、顔を下のほうに向けないとたまったものではありません。風速1メートルにつき体感温度が1度下がるといいますから。 ロシア式バーベキュー(シャシリーク・ЩАШЛЫК)【写真は雪の中でのシャシリーク。右は、最初にホームスティし、在ロ中に最もお世話になった先生。生徒がポラロイドカメラで撮ってくれました。】 最初の冬、93年2月か3月のこと。生徒と先生の希望者が郊外の宿泊施設に1泊して遊びました。 森の中の閑静な所です。 施設から歩いて少しの所に格好の場所がありました。まず、枯れ木を集めて燃やします。細い枝だけではなく、腰掛けられるほどの太い幹も燃やします。もちろん男性の役割。 炭火になってから金属製の串に刺した肉を焼きます。肉は写真の先生と息子さんが、独特の味付けをしたのを持参してくれました。 焼きあがるまで待てない人は、もうお酒を口にしています。寒さにお酒はつきもののようで。 その次の冬は先生の家族と出かけて、お茶を飲んだりしました。深深とした雪の森は、熱い紅茶とお菓子の味を引き立ててくれます。極東の人々にとって、自然はいつも親しい友のようです。 お茶(チャィ・ЧАЙ)お茶は一年中楽しめますが、寒い季節に飲むのは別格です。招き招かれして家の中で集まることが多くなります。そのときのおいしさと雰囲気は、忘れられません。外の寒さに反比例して熱くなるのです。お茶とはもちろん紅茶で、自家製のバレーニェという、ジャムのまだ実の形が残っているのを小さい皿に入れ、紅茶と交互に食します。日本のロシアンティーのように、紅茶の中にジャムをいれてしまう飲み方は、広いロシアの一部の限られた地域に見られるそうですが、一般的には別々です。 ティーポットに葉を入れて熱いお湯を注いでおきます。 葉の量は何人前というふうには量りません。ザヴァルカという濃いのを作ってから各カップに少量入れ、そこにお湯を注ぎます。 ティーバッグは94年から輸入品のリプトンのを見かけるようになりました。 お湯を沸かす金属製のサモワール(発音はサマヴァールに近い)を囲むと、雰囲気も変わり話がはずみます。このサモワールは、昔は熱源に炭を使ったようですが、現代のは電気です。実際に使用するのは減少傾向にありますが、装飾品やみやげ物としては販売されています mえむの冬の光景三選
つるつるテカテカ道路歩道のあちこちに、ミニミニスケート場がお目見えします。子供たちは滑りながら進んでいきます。坂道が多いときているので、バランス感覚が悪いと幾度も転ぶことになります。多い年で10回も転びました。5mほど滑り落ちたこともあり、木に衝突する直前で止まってほっとしたことでした。 冷たくても手はポケットに入れられません。一番怖いのは下りの階段です。ちゃんとした階段の形になっておらず、手すりにつかまってへっぴり腰で降りていました。転んで足や手に怪我をする老人が多いようです。幸いmえむは尻餅型の転び方だったので怪我はありませんでした。 北海道からいらっしゃった或る先生が、靴底につける転び防止用のアタッチメントなどを送ってくださいました。気分的にも安心したことでした。 毛皮のコート外出時の服装といえば、女性は毛皮のコート、男性は皮の長目のジャンパー、そしてシャープカという毛皮の帽子、中がもこもこの皮のブーツ、これが定番です。何と言っても、ロシア女性はとてもおしゃれです。2000ドルはするだろうミンクなどのコートの若い女性もときどきみかけました。93年の、物がなくて平均月給も50ドルぐらいの時にです。 擦り切れたのや、ごわごわした毛のコートを着ているのは、おばあさんです。年金生活で余裕がないのでしょう。 その後、年を追うにつれ、店にはヨーロッパ製のが多く並ぶようになりました。 (参考:当時、ロシアの通貨「ルーブル」は為替の変動が激しくて、米ドルで記憶しています。 ものすごいインフレで、夏休みで日本に帰国している間に貨幣の価値が下がってしまいます。 帰国直前に買い物をしてルーブルを残しませんでした。 ロシアの人たちも預金は米ドルです。銀行は倒産することもあるので信用せず、タンス預金です。) 暖房93年にはまだ暖房もよく効いていて、部屋の中は20度を越えていました。半袖でいられるのです。日本の木造の家屋では考えられない、天国のようでした。暖房は、建物毎ではなく、地域ごとの集中暖房です。温度調節が出来ないのが不便で、たまに夜に暑過ぎたりしました。熱いお湯が一日中使えました。ところが次の年からは、炭鉱のストライキなどが原因で暖房が弱くなり、効かないこともありました。高い階になると室温が低くなります。お湯もぬるくなり、全く暖房のない日は冷水のままです。 供給管からお湯の流れ出す音が聞こえてきたときの安心感は、何ともいえません。 そんな時は、学校ではコートを着て授業を受けるという光景もよく見られました。 |