いざ冬のロシアへ冬の情景と楽しみ 入院も貴重な経験何てったってダーチャ
祝いの日治安 ロシアの結婚ウラジオの日本人
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 ソビエト崩壊後に国内外に開放された1990年代のウラジオストクは、経済状況の悪さゆえ、治安は良いとは言えないものでした。  おばあさん達から「昔はすべてが安定していたのに、外からいろんな人がやってきて生活しにくい、危ない街になってしまった」という言葉を聞きました。
 mえむは、水と安全はただでいつでも保障されるものではないことを、断水と泥棒で体験しました。
 耳にしたこと、経験したことを幾つか書きますが、これで治安の悪さだけが強調されませんように。わが国と同じように善良な人たちがほとんどなのですから。

mえむ、スリにあう

 
       【1回目】まず小手調べ?
最初の冬、数回目の外出で、最初のスリにあいました。 買った室内履きをコートのポケットに入れたのが間違いです。
       【2回目】グム(デパート)でけっこうな額の入った財布
 ロシア人先生と陳列棚を見ていた時、リュックの中から財布を盗られました。 後ろから数人が陳列棚を見たいのだというふうに押して来たのです。 彼らグループは、押しながらmえむの気をそらして肩に掛けていたリュックを後ろの方に回し、鍵の掛かっていないリュックの中からまんまと財布を盗んだのです。 彼らがさーっと散らばって行った直後に、気づきました。 1993年5月末のことで、帰国用航空チケットを買う金額がドル紙幣で入っていました。
 どこかでお金を数えたわけでもなし、彼らの嗅覚でしょうか。2,3日して空の財布が警察から戻ってきました。 デパートの向かい側の雑木のそばにあったそうです。
 警察へロシア人先生が付いて行ってくれ、被害届けを出して証明書をもらいました。 その証明書を添えて大学に申請すると、見舞金がもらえました。額はわずかでも、こんな制度があるなんて!
       【3,4回目・・】性懲りもなくリュックを使って
 リュックが危ないと知りつつも便利さから、使い続けていました。 はたして、トランバーイ(路面電車)の中で横の下方をナイフで切られました。幸いその時は被害はありませんでした。 犯人はどこにいたのか、思い起こしてみると、昇降口の一段低いところにいたようです。
 これでも懲りずリュックを使い続けました。売っていないので買い換えることもできず、糸で縫い合わせて使っていました。 何年もいるとつい気が弛み、またまた公共の乗り物(トランバーイだったかトロリーバスだったか)の中でやられました。今度は実害です。額はロシアの通貨ルーブルでわずか、犯人はがっかりだったでしょう。
 やっとリュックを捨ててカバンを買いました。でも、下げて持つので座っている人にナイフで切られてしまいました。
       リュックは前で抱えること
 この話をすると、ブラジルに住んでいたKさんに「日本にいるのと同じ感覚じゃ、当然でしょ」と、防犯意識のないことを諌められました。サンパウロでは文字通り一歩外へ出たら、警戒を要するというのです。 まして、人ごみの中では、リュックやバッグは前で抱えることが原則だと。
 髪の色が黒い人はロシアの人々の中にも結構います。しかし、リュックを使う人は当時は滅多に見られませんでしたから、ターゲットになりやすかったのです。
 現金を持っているという話をしたり、他人が見えるところでお金を出したり、数えたりしないことは、絶対守るべきです。銀行から出た時は特に注意。後をつけられ、物陰から襲われたりする可能性があります。 ある両替所など、出入り口にものものしい格好の警備員がいて一人ずつしか入れなかったほどです。

盛武里香さんをいつまでも忘れません

1999年7月26日、日本語教師の盛武里香さん(埼玉県出身)は、31歳の誕生日を祝った後、 同居していたロシアの男性ザハールさんとともに行方不明になりました。一時帰国直前のことです。 数日後、残念にも遺体として発見されました。 尋常ではない遺体の姿に、告別式は行われませんでした。
 現地の新聞には、出入りしていた修理工(28歳)の金目当ての犯行だとあったそうです。 アパートの自宅でザハールさんが殺された後、折悪しく里香さんが帰宅したので、二人とも殺されるという結果になったとか、 家の修理代金について、犯人とザハールさんの間でもめていたらしいという話も耳にしました。
mえむは、このことを日本で伝え聞きました。
ありし日の盛武里香さん
 里香さんは、中国留学中にザハールさんと知り合い、1991〜1992年ごろ、彼の仕事の地ウラジオストクに来ました。ソ連崩壊後に新設された私立教育機関「ビジネスアカデミー」で日本語を教えており、1999年9月からは極東大学で教える予定でした。
 里香さんは、誰とでも分け隔てなくつきあい、誠実でとても親切な人でした。学校で生徒に慕われていたことはもちろん、ロシア語、中国語、日本語、いずれも通じる家であり、料理も上手なので、自宅にも人が大勢訪れていました。たびたび持たれた日本人日本語教師の集まりには、おいしい創作の手料理で楽しませてくれたものです。 mえむは「自宅にFAXがあるから使いたい時はどうぞ」との申し出に甘え、送信させてもらったこともあります。
 今は手帳に、里香さんが書いてくれた住所と電話番号(オクチャブリスカヤ14-1x , 25-60-2x)が残り、写真の中で微笑んでいます。その人となりは、いつまでも心に残っています。
 聞くところによると、遺骨はモスクワのザハールさんの墓地に分骨され、ロシアの地に愛した人の下で永眠しているとのことです。

もう一件の殺人事件

mえむの知らない人ですが、他にも強盗殺人事件が2002年にも起こりました。 札幌から語学留学していた古川崇さん(24歳)がアパートで麻薬常習者3人によって殺されました。 ヘロイン購入のための盗み目的でした。
 古川さんは、前日に中央広場で知り合った3人(18歳、25歳二人)に、安易に住所を教えてしまったのです。 1年間の留学を終えて帰国前の3月18日のことでした。

与謝野晶子の詩碑の銅版すら盗難に遭う

96年の与謝野晶子の詩碑(銅版有り) 98年の与謝野晶子の詩碑(銅版無し)
96年、 銅版が輝いていた頃

98年9月には2枚とも消えて無残な跡が

 極東総合大学東洋大学の入り口に建っていた碑から、日本語の原文と解説が刻まれた二枚の銅版が盗まれました。 小さなロシア正教会の建物があるパクロフスキー公園、その向かいの道路際という、立地条件のいい所です。
厳しい経済状況のもと、貧しい人は金になるものなら何でも得ようとしたのです。危険を伴う弾薬すら金のために近づくのですから、無防備な石に貼られた銅は、かっこうの獲物だったのでしょう。

 ついでに、この詩碑について少し。
刻まれていた詩は「旅に立つ」。34歳の晶子が、1912年5月5日敦賀港を発って、このウラジオからシベリア鉄道に乗り込んだ際に詠んだものです。前年11月にパリに渡った夫の寛に会いに行く旅ですから、夫を慕う情熱的な内容の詩です。
 1994年、京都の与謝野晶子を研究するグループ(与謝野晶子アカデミーなど)が建てました。 2004年8月2日、修復された碑の除幕式が行われました。 手がけたのは山梨学院大の我部政男教授(日本近代政治史)。今度は盗まれないように、詩の原文などは碑に直接刻み、複製した銅板は極東大学の施設で保存するということです。

邦人対象は盗みが目的

以下は聞いた話の主なもの。いずれも男性で、一人住まいか旅行者でした。
  • 夜暗くなっての帰宅で、自宅の玄関先で殴られる。
     暗くなくても自宅の鍵を開けるときは、周りに要注意。
  • アパートの階段で殴られ怪我。出血し、日本で治療。
     中央郵便局前のキオスクで買い物をした時から後をつけられる。
  • 一時帰国中にアパートの電気製品などがごっそり盗まれる。
     玄関のドアは2重(1枚は鉄製のドア)になっていても、窓際の木をよじ登って窓から進入。  留守だということが知られると、狙われる。
  • 夕暮れの帰り道、数人の男につけられ、殴られる。
     まとまった額の現金を持っていたので必死に抵抗して、怪我。服は血で汚れる。
     幸い誰かが歩いて来、泥棒たちは逃げ去る。現金は無事。
  • タクシーの中で見ぐるみはがれる。
     旅行者にはタクシーは必要なものでも、時間帯や行き先に注意。
  • 用事?の間に、荷物をみんな持っていかれる。
     男性がとんでもない用事目的で来ること自体がいけません。
     ホテルなどで、ナターシャの隠語で呼ばれる女性(売春目的)を紹介するという話に乗らないでほしいものです。 (注)ナターシャという名前はポピュラーな女性の名前で、ナターリアの愛称形。

権力闘争・爆発事故

 ウラジオはロシアでも治安のワースト上位に挙げられるという地域でした。 2004年7月にも、市長選挙に絡む爆発事件があり、立候補者が負傷しました。 権力の奪い合いはいつの世でもあるのですが、その方法が荒いと社会全体が不安になって困ります。
 ウラジオ滞在中にも、銃撃されたとか、監禁され殺されたとか、自動車に爆弾が仕掛けられ爆発したなど、耳にしました。 権益の奪い合いが多いのだと、あるロシアの人から聞きました。 実行犯は、いわゆるマフィアなのでしょうか。
 96年に弾薬庫の爆発事故もありました。東側の対岸でのことです。 山中にあった古い弾薬庫で、保管状況がよくなく、作業中のミスで引火したとか記憶しています。 数十km離れたウラジオも爆風で窓がガタガタしました。ウラジオの街にも古い弾薬があるかも知れないと想像させられた事故でした。
このソ連時代の遺物は、しばしば事故をおこしています。(1992年,2003年,その他)

警察官

治安を守るのは警察です。 「基本的には、日本の警察と比べて、決してひけをとるものではない」と在ウラジオストク総領事館員の話を聞きました。
でも、給料の安さから来る問題点が多々ありました。 まず、なり手が少なくて優秀な人材が十分でないことがあります。 ロシアの人たち自体が、彼らを信頼する一面と、半ば公然と行われている不正も仕方がないとする一面を持っていました。
いわゆる交通取締りなどはアルバイト料のようでもありました。中国人の密入国が多いからと、パスポート所持の検査をあちこちで行うと日本人もそれに引っ掛かりました。罰金(?)を徴収するのも、一部はそれのようです。ちゃんと(?)警察署に連行され拘置された日本人女性もいました。所属機関(ロシア)の人が出向き、身分を証明して帰ることができたとか記憶しています。
 或る若い日本人男性がウラジオを出て旅行中に、査証がその地域を旅行するのに不充分だとかいう理由をつけられてカバンの中を調べられ、財布のドル紙幣まで数えられたということがありました。解放された時にはドル紙幣が幾枚か抜き取られていたとのこと。別の警察官が話をしてそちらに気をとられている時に数えていたというのです。
 抜き取られたことに気がついた彼は、引き返して勇気を出して抗議し、取り返しました。 その時のことがまた面白い。警察官は「そんなことはない。もう一度数える」と言って数えている間に盗った紙幣をそっと戻したのです。もちろん、彼の目をそらさせて。そういえる根拠は、ほっとして帰途に着いた彼が数え直した時に、すべて新札だったはずなのに、折り目のついた数枚があったということです。

予防が第一

暗くなってから一人で外を歩かないことです。耳にたこができるほど、言われました。パーティで遅くなった時など、男性を含む2,3人が自宅まで送ってくれます。男性がいなければロシアの女性が送ってくれます。ロシア人の男性さえ夕方一人で歩いていると、建物の陰から飛び出てきた男にやられたという話を聞く時勢でも「外国人を安全に」という気持ちで対応してくれたのです。
もちろん、あやしい所への出入りはいけません。
情報は人と場所を考え慎重に発信することを普段から身に着けておくべきです。これは今、日本にいながらも感じています。
 信頼できる人かどうか、見極めるのは難しいことです。隣にいるから安心というわけにもいきません。その人を通じて他に伝わるかもしれませんし。 また、過敏になって心が狭くならないように注意しなくてはなりませんしね。
 日本企業が現地採用する時は、つてを大切にしているようでした。とにかく、初対面の人には慎重に。
●万一の時のために、護身術の練習もやっておくに越したことはないと、或る年、日本人会で行われました。 特に女性が対象で、講師は武術の有段者。腕を捕まえられた時の振りほどき方、 突き飛ばされた時の転び方と立ち上がり方など、全くの素人でも簡単にできることを教えてくれました。体育館を借りてマットの上で行われました。スポーツ音痴のmえむには、中学校以来の体育館でした。

無事生還

1998年12月28日、父の病気のため帰国しました。帰国したことを知ったN先生は「祝生還」ということばをくれました。 はじめは「大げさな」と思ったこの「生還」ということばも、里香さんの事件後、現実的に感じ、自分を客観的に振り返って見ることができました。
うっかり者が今も元気で生きていることに感謝!
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