いざ冬のロシアへ冬の情景と楽しみ 入院も貴重な経験何てったってダーチャ
祝いの日 治安ロシアの結婚ウラジオの日本人
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 はじまり

 江戸時代に漂流民がロシアにいたことは、井上靖の小説「おろしあ国酔夢譚」やそれを元にした同名の映画でも知られています。
では、ウラジオストクに日本人はいつごろ住み始めたのでしょうか。1860年代でしょうか。1876年には日本の貿易事務館も開設され、より良き生活を求めて九州や関西、北陸から渡っていきました。
 日本人街ができ、さまざまな職業を営んでいました。料理屋はもちろん、写真館、お寺もあり、新聞まで発行されていました。その地域には当時の建物が今もいくつも残っています。  1907年には領事館と日本人学校が開設されるほどになりました。1921年には6,000人ほどが居住していました。
下記はその頃の様子が書かれている本です。

『リラの花と戦争』
戸泉米子著 福井新聞社刊

1891年創設された西本願寺最後の住職、戸泉憲溟の嫁としての体験談。当時の生活ぶりがよく分かります。 (著者は福井県に戻って、シベリアに抑留された旧日本兵の墓の発見に半生を捧げ、2009年4月に96歳で他界。)
『遥かなる浦潮』
堀江満智著

商人であった父親が残した資料を元に書かれています。経済面に関心のある方必読。

戦争、そして閉鎖都市へ

 日露戦争(1904年〜1905年明治38年)は冬季開戦で艦隊は中国旅順港にいたため、ウラジオストクは威嚇砲撃だけに終わったようです。その後ロシア革命が起こり、1920年前半に日本人はほとんど引き上げました。
 第二次世界大戦後、抑留兵の一部がウラジオストクで労働させられていました。彼らの汗と涙のこの道路、あの建物・・・。ウラジオストクで一生を終えた人たちの墓地が2箇所あります。番号がふられただけの人々。1991年ソ連崩壊後に日本人の手によって建てられた慰霊碑の新しさが空白の年月を感じさせます。今もロシアの「平和基金」という団体が全面的に協力して遺骨収集が行なわれています。
空港へ向かう途中にある墓地。四角のコンクリート枠に番号が振られています。慰霊に日本人が訪れ、日本式の墓石も建てられました。
市街地に近い「海の墓地」にも日本人会のメンバー30人ほどで墓参。

開放後、各方面の交流

軍事・防衛

 ロシア太平洋艦隊の基地という軍事的理由により1952年に閉鎖された町は、1991年のソ連崩壊に伴って開放されました。
今は両国の環境保全という共通目的の下、退役した原子力潜水艦の解体に協力という形で日本人技術者が訪れることになりました。 解体現場はウラジオストクの対岸、ボリショイ・カーミン(大石の意)のズベズダ(星の意)造船所。
 また、防衛面の交流も行われるようになりました。ロシア海軍の300周年記念に海上自衛隊艦船の訪問、2002年、日本海上自衛隊の50周年記念の国際観覧式にロシアのミサイル巡洋艦バリャーク他2隻が参加。 日本文化フェスティバル2003の一環として、護衛艦が訪問し音楽隊のコンサートもあった、という具合です。

経済

 街中で目に付くのは日本車です。国内の遠くから運ぶより近くの外国から運んだほうが安くつくというのも人気の一つです。入れ物と共に重要なのが、走らせる燃料の供給です。
 日露の原油と天然ガスのプロジェクト(サハリン1、サハリン2)は いよいよ稼動し始めました。また、もう一つの重要な協力案件は、シベリアの原油を太平洋岸に輸送する太平洋パイプラインプロジェクトです。

教育

ウラジオストクでの日本語教育の始まりは1899年です。東洋学院が、アジア諸国の言語や事情に通じた専門家育成を目的に設立されました。スパルヴィン教授の下に日本人講師前田清次も教鞭をとっていました。 スターリンの「大テロル」が頂点に達した1937年には、東洋学関係者が一斉に逮捕されるということがありました。
 現在は改組された極東大学をはじめ、4つの大学、小学校に至るまで日本語を学ぶ人が増え、概して日本人に対しては好印象をもっています。ロシア語等を学ぶ日本人留学生も少なくなく、日本紹介にも大きく貢献しています。
また、「日本センター」が置かれ、経済セミナー、日本語教育が行なわれています。

芸術・スポーツ

領事館や日本の各県などが主催して絵画や生け花展が開かれ、バレー学校の交流(福井県)もあります。
最近、空手や剣道も人気が出てきたようです。ロシアのサンボーに日本人選手も見られます。


※2005年は日露修好150周年、様々な事業が展開されました。

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