杉浦よしお
懲りない人生…なんで4回も。
故郷を捨てて32年。
私は、けっして人様から誉められるような生活をしていない。
酒におぼれ女に翻弄され、その日暮のような生活をしてきた。
その私を慰め現実から逃げだし、今まで生きてこられたそれは、ブルースがあったからである。
@ブルースコードE
浪人の末、大阪の大学を5年かかり卒業した。
その時は、すでに1回目の結婚をしており就職をした。
入社式で辞令をもらった。
しかし私が希望した職場とまるで違った所。
大手建築会社とは、そんなものかと辞令をもらったその日に退社した。
若いというのは実に無謀なものだ。
その足で大学の就職課に行きアルバイトでもいいからと他の就職先を紹介してもらった。
翌日からそこで働く。
ブルースマンは、こんなもんだと自分に言い聞かせ、働いた先が大阪のテレビ局。
なんとなくオモシロそうだなと思った職場だった。
だが、給料は薄給で妻は美術の教員をしながら私達の生活を支えてくれた。
その妻は私が弾くブルースが好きで良く二人で酒を酌み交わしながら過ごした。
酔うと妻が良く私に言った。
これから生まれるであろう子供の名前…男の子なら一揆(いっき)で女の子ならセーヌがいいわと…。
一揆とは、私が高校時代に組んだバンド名“百姓一揆”の一揆を取ってだ。
セーヌは、セーヌ川のように清らかで雄大な川の様に育ってほしいのだと…。
妻と付き合って直ぐに、私の我がままで一度、子供を堕胎した。
それ以来、妻は子供に対する想いが強くなった。
結局、その妻とは、願いもむなしく子供は授からなかった。
私は、その当時、海外取材で一年の8ヶ月間を海外で暮らしていた。
当時の番組“世界まるごとHOWマッチ”の取材で世界中を飛び回っていた。
その傍ら、妻はインドへ一人で旅に出たりで、すれ違いの生活をしていた。
まあ若いから好きなことをするのが一番と二人とも納得していた。
その後、私は仕事で行ったアフリカエチオピアで出会った日本人と恋に落ち東京で暮らすようになり、10年の結婚生活にピリオードをうった。
30歳で独身になった。
AブルースコードG
アフリカで知り合った女性を追い東京で働くようになる。
仕事も順調!?東京キー局の制作プロダクションに所属した。
しかし、考え方の違いと若さで殴り合いの喧嘩をして警察沙汰になり退社。
私は、社則やもろもろ決められた事をするのが不得意である。
それ以来、サラリーマンは向かないことに気づきフリーのディレクターになることに決めた。
東京に来て2年間、アフリカで知り合った女性は、とにかく私に良く尽くしてくれた。
2歳年上の有名なディレクターだった。
しかし、そんな彼女を私は裏切ってしまった。
他に好きな女性が出来たのだ。
7歳年下の女性。
その新たな女性と結婚を約束して結婚した。
ブルースマンは、すぐに恋に落ちるものだ…
BブルースコードA
2回目+1の結婚!今回の妻は、“上げマン”そのものの女性だった。
来る仕事は順調でゴールデン番組を任され収入も安定していった。
あるテレビ局とも契約をし、私の得意とする海外取材も多くなった。
この時から私の取材の思考が少しずつ変わってきた。
バラエティー番組から報道番組思考に変わってきた。
薬物で犯された患者や障害者の生きがいをドキュメントにしたものを演出するようになった。
この仕事をやる意義、ジャーナリストとしての道に目覚めたのである。
2番目の妻との仲も良く二人で当ての無い海外旅行に良く出かけた。
だがブルースマンとして試練がここで突然、私に降りかかった。
妻が膠原病(こうげんびょう)血液の癌にかかり医者からは、あと1年ぐらいの命だと宣告された。
直射日光にあたると極端に免疫力が低下する。
妻は日に日に痩せていく。
私は、一大決心をして仕事を2ヶ月間休み残り少ない妻との時間を海外巡礼の旅で暮らすことにした。
タイ・ネパール・インド・チベットを彷徨った。
その旅の最後の土地チベットでついに妻は倒れた。
旅に出て1ヶ月を過ぎていた。
難病の上、なんと高山病にかかり(チベット・ラサは4000メートルの高地)妻の顔が2倍以上に腫れ上がり呼吸も不規則になる。
もう今夜が山だと覚悟を決めた。
少しうとうとしていると妻が突然“お腹すいた”…目をこすりながら妻の顔を見ると顔の腫れも無くなり顔色も良くなっていた。
とにかく妻の命は、助かったのだと…私は、涙が止まらなく妻を抱きかかえた。
妻も私の胸で号泣した。
その後、妻は信じられないくらい元気になり食欲も出てきた。
奇跡がこのチベットで起きたのです。
チベットという地は、空気中にチリが無く空気が澄んでいる。
100キロ近く離れている山が1キロ先の山のように近く見える不思議なところです。
その2週間後、私達は、帰国しました。
妻と二人、掛かり付けの病院に行ったところ、血液の癌細胞が激減しほとんど完治に近い状態だと…その後、妻は仕事が出来るまでに回復し元気になりました。
その後が私のいけない所で我侭なブルースマンの性、私は、何人かの女性と遊ぶようになり家に帰らない日々が続き、今度は妻から三行半を突きつけられた。
海外出張から帰った私の家の中が空っぽになっていました。
そう妻は出て行ったのです。
7年間の結婚生活の終わりでした。
CブルースコードD
その遊んでいた女性の中の一人から突然!あなたの子供を妊娠したと(13歳年下)…ビックリしたのと同時に嬉しさがこみ上げて来た。
身のかわし方が素早いのがブルースマンの特徴!?直ぐにその女性の両親に謝罪に行き出来ちゃった結婚をした。
私はこの時、今までの事は水に流し清算してこれからは、逆転ホームランだと思いました。
生まれた男の子で名前は、一揆にした。
一番目の妻と決めた男の子の名前である。
これで俺もハッピーエンドで終われるカントリーな暮らしに行けると信じた。
幸せな日々を2年間ほど過ごしたころ息子の一揆が少しおかしいのである。
目がだんだんブルーになってきたのである。
ブルースマンの息子だからブルーと言うわけではない。
まさに外人顔になってきたのです。
心はブルーになる。
感極まってある時、妻に問いただしたところ、息子の父親は私と同時に付き合ってきたカナダ人だと言うのである。
その宣告を聞いた日は、あの9.11のトレードセンターテロの時である。
私は、その事件を追ってよりによって、この日ロシアモスクワに行って特殊部隊の取材に行く事になっている。
私の頭の中がトレードセンターのテロ以上のショックだったのを未だに良く覚えています。
その後、実の父親の居場所も分からず一人の命、息子一揆を実の父親として育てることにしました。
それから1年後、突然、家庭裁判所から親子不存在調停で家裁に来るようにと通知が届いた。
妻に訳を聞くと将来、息子が自分の外人の容姿に疑問をもつようになるとまずいから血の繋がりの無い親子にしたいと訳のわからないことを云った。
家裁に行くと裁判官が、実の父親が見つかったのでその準備のためと聞かされた。
戸籍上の親が私だと実の父親と息子を連れて結婚出来ないのだと… ブルースマンとしては、まさに♪シィ・イズ・ゴーン♪オーマイ・クレージーである。
DブルースコードオープンG
4回目の結婚。
この離婚調停を影から見ていた女性ADが突然私に結婚しましょう。
女性からのプロポーズされたのが24歳年下美人。
私があまりに落ち込んでいたのを見かねて言った言葉だった。
私は、また恋に落ちた。
その数ヵ月後、その両親に挨拶に行った。
すると両親の年が私の年のたった5歳年上だった。
まさにオーマイゴットである。
式は挙げずに結婚届だけを出した。
何度も同じことを繰り返すのはブルースマン!?これまでの3回の結婚は、すべて挙式を挙げ私の両親が辛抱強く出席してくれた。
だが今回は、3回目の妻との離婚をまだ伝えていない。
両親は、孫が可愛くてしかたない様子で良く電話をかけてくる。
私は、その都度、適当にごまかしていた。
ある日、父親が突然、息子に会いにきた。
ちゃんと父親に報告しなければならない。
24歳年下の妻と、すべてのこれまでの事情を父に伝えた。
父は、相当のショックだった。
帰りのタクシーで見送った父の肩が少し震えていました。
私は、父に“かあちゃんには、徐々に話したほうがいいよ”と…。
父は、“わかっとる大丈夫や”と精一杯の言葉が返ってきた。
父にはすまない気持ちでイッパイだった。
その晩、金沢の兄から“親父が死んでしもうた”と…私は、何か訳がわからず金沢に飛んで帰った。
家に帰る途中の道で車に轢かれて即死だったそうだ。
家から10メートルも離れていない道で79歳の命を終わらした。
ブルースマンとして一人の人間として最悪の結末である。
これで一巻の終わりである。
その後、24歳の妻と別れ金沢に32年ぶりに人生の敗北者として帰ってきた。
今年、私は、50歳になる。
多分ここまで波乱万丈に生きてきたのだからこのままで終わるわけがない…怖いような楽しみのような…でも、ブルースだけが私を捨てずに、ずーっと居てくれた。
これからも人生のクロスロード!