端野 優子
先月のロブロイスト、W氏と「愛すべきじぃちゃん」にネタを頂戴した形になりました。
暫くだけお付合いください。
昭和41年11月11日の秋晴れの日。
川沿いのバス通りに美容室が開店しました。
古い小さい家を改装した「店舗 兼 住宅」とは名ばかりで、客用椅子と鏡が二つしかない「しがないパーマ屋」でした。
店主は24歳になったばかりの妊婦でした。
開店したばかりなのにその日は、偶然ではあったにせよ本当に「11人」お客サンがいらしたそうです。
数字の偶然があり、店主にとって忘れられない日となったその日からしばらくは景気の波と時代の波に乗り
「ローションを塗布し、昔式の柔らかいバネの入ったカーラーでしっかり巻き込み、お釜をかぶってもらい、セットをする」
「妊婦にはイジメのような匂いのパーマ液でパーマをかける」
ということを朝から晩まで、定休日以外は立ちっぱなしでハードな毎日を繰り返したそうです。
さらに、この店主は会社員の妻もして、初めて迎えた「お弟子さん」も住み込みさせ、賄いもしていたようで、かなりムリをし、体も疲れていたはずなのに、24歳という年齢と「自分のお店」を持てたという、職人にとって、この上ない喜びがすべてを「ヘッチャラ♪」にさせたのでしょう。
それにしてもよく流産しなかったものです。
このムチャクチャで恐れ知らずの負けん気の強い「じゃじゃ馬」は無事41年の寒い冬を越え、翌年、昭和42年の5月に、とうとう金沢大学付属病院のベッドの上、人生で一番強烈な痛みと三日三晩戦うことになりました。
陣痛微弱で母子共に危なかったそうですが、幸い頭は下を向いていてへその緒も絡まってなかったからか、単にラッキーだったのか、最後は何かで無理矢理、頭をつまみ出したそうです。
5月14日の晩、世間が「大河ドラマ」を観ている時間に、このグダグタな文章を書いているワタクシこと「優子」が「じゃじゃ馬」から産み落とされました。
「馬のダンナ」こと私の父は勝手に「絶対!男!」と思いこんでいたので男の名前しか用意しておらず、父が「山本富士子」が好きだから「富士子」と言い出すので、なんだか、その安直さに母はたまらなくなり
「お願い!また産むから今回だけは私に決めさせて!お願いやから!ねぇ、ユウコって響きはどう?いいでしょ?」
「ん・・・・まっ、好きにせぇや。ほんでいいぞっ!じゃ!後は頼んだぞ!」
と父は言い残し、出張に出たので、母は漢字も好きな字を選び、サッサと届けを出したそうです。
月日は流れ、今年の秋に40周年になるその小さいパーマ屋は、幸いなことに、まだ営業しています。
最近の母は、昔からのお客サンの「天国への旅立ち」を見送ることも珍しくはなくなり、「じゃじゃ馬」も少しずづ、体力は落ち、予約制でないと櫛とハサミがもてなくなりましたが今日も四角いデッカイ前歯で、看板猫と一緒に店に立っています。