奥平光城
それは徹夜明けの朝だった。初夏の陽射しはもう十分高く、長時間の残業に擦り切れた体には少し痛いぐらいの眩しさだった。
本当はすぐにでもベッドに潜りたかったのだけれど、疲労した肉体とはうらはらに、一晩中続いた仕事に緊張が解けずなかなか寝付くことも出来ないでいた。
普段、寝酒はしないのだけれど、どうしようもなく喉が渇いていたので、冷蔵庫から350ml入りの缶ビールを取り出す。
シュッと炭酸が抜ける音と黒ビール独特の甘い薫りが部屋の中に漂う。
ロブロイからの原稿依頼があったのは、そんな火曜日の朝だった。
多分、そしてこれは恐らくなのだけれど、ここに投稿を寄せる人たちの中で、僕はもっともロブロイストに相応しくないのだと思う。
例えば控えめに数ヶ月に一回ぐらいのペースでしかお店に顔を出していないだとか、まだまだこのような酒の関る場所で、
薀蓄とは言わないまでも、文章なるものを描き記すには、多少なりとも人生経験が不足している若輩者であるだとか・・・。
そんなことはまだいい。よくよく考えてみれば、そもそも僕はお酒がそんなに飲めないじゃないか。
少しばかりのはばかりもあるのだけれど、たまには下戸による「ロブロイストの日々」があってもいいのではないか、
と自分勝手ないい訳と慰めが唯一の救いだと信じ、この筆を進めることにする。
ロブロイの扉を初めてくぐったのはたしか3年前の冬だった。
当時の僕は、どんよりとした灰色の雲に覆われ色彩を失った北陸地方の冬に随分と滅入っていた。
その年の春、仕事の都合で、関東から能登に引っ越してきたのだけれど、日本海側で迎える最初の冬は、
それまで太平洋側の明るい冬しか経験のなかった僕にとってそれなりに辛かったのだと思う。
たかが天気と言う勿れ。当時の日記を読み返してみても―恥ずかしい話だけれど、数年前から日記を残す習慣がある。―
冬になれば毎日天気の事を話題にしていたのだから、よっぽど日々の話題やネタを持ち合わせない程に単調な生活を送っていたか、北陸の冬が衝撃的だったかのいずれかだ。
この際、ついでに手元にある日記を捲ってみた。2002年12月14日土曜日の夕方ふらふらと立ち寄った場所がロブロイだったと書き記されている。
もちろん本格的な日記ではなく、ただそのときの出来事と所感を描写的に淡々と書き記されているものだから当時交わされた詳細な会話は残っていない。
行間に埋もれてしまった古い記憶の鎖を手繰り寄せてみると、―もちろん今日まですっかり忘れていたのだけれど、―その日はアイラ島のシングルモルト限定271本のボウモアが話題に上っていた。
どこかの小説家の言葉ではないけれど、小さいけれど確かな幸せというのは、例えば、これはあくまでも例えばの話だけれど、
安月給のサラリーマンが、ボーナスの出た週末に、ふと立ち寄ったカウンターバーで、普段では飲めないような、
いや正確に記述すれば普通に暮らしていれば一生出逢うことの無いようなお酒に巡りあい、
ちょっと無理をしてその一杯を、その独特のピートが鼻腔に抜ける心地よさと舌の奥の方で感じるつんとした苦味と旨みとを、
十分な時間を掛けて味わったりすることなのだろうなと思う。
ちょっとした贅沢だとか至福とは、はたまた道楽とはなんぞや、そんな高尚な、はたまた言葉を変えればどうでもいいような会話していたような気がする。
もちろん僕はお酒の席でいつもそんな難しい話をしているかと言えば、そんなことは無く(出来る訳が無く)、
その日はたまたま初めて訪れたロブロイと言うバーとマスターと271本しかない限定のシングルモルトへの敬意が醸成した会話だったのだろう。
6月上旬の徹夜明けの火曜日の朝、ロブロイストの日々への投稿依頼のメールがあった。
その時はただ漠然と何も考えずに、いや、どうにかなるか、なんて気軽な気持ちで引き受けてしまったのだけれど、せっかくのいい機会だ。
初めてロブロイを訪れた際にテーマとなった「道楽」について考えてみようと思う。
けして安易に「酒道楽」へと話が展開しないように注意しながら、そこは下戸がなるべき道楽者の姿を探求したいと思う。
明治の文豪夏目漱石は、自身の公演の中で、この「道楽」という言葉を「職業」のもっとも対となす言葉として用いている。
その公演の趣旨をかいつまむと、他人本位の活動、つまり他人のために何か為す、そしてその対価として給料を貰う、これが「職業」であり、
一方、他からの何ら干渉とは一切関係なく、自分の好きなように自由な行動、自己本位な活動が「道楽」であると言う。
例えば、芸術活動もそれが生活費を稼ぐため、例えば、自分の信念を多少押し曲げたとしても売れるものを、と意識して為された芸術は「職業」であり、
売れるだとか売れないだとか、そんなこととは一切関係の無いところで、他人の評価も気にせず精神的にも自由を得た活動は「道楽」になる。
かの文豪は、芸術家だとか科学者だとかの仕事のように「他人本位」では成立し難い職業、すなわち、己のためになす仕事を「道楽」と呼んだ。
多少の誤解を恐れずに踏み込んだ解釈をするのであれば、精神的にも経済的にも、周囲から独立し、
自由に為すこと、これが「道楽」であり、それを実践するものが「道楽者」になるのだろう。
他人本位デハナク自己本位ナ活動=道楽。
僕の日々の生活の中で、この「道楽者」に該当しそうなものを探してみる。
今年はアインシュタイン博士がかの有名な「相対性理論」を発表してちょうど100年目にあたる年になるらしい。
この理論がなければ、―宇宙空間の謎の何たるかは、科学に関る道楽者に任せたとしても―原子力発電やらカーナビやらの利便性を未だに享受することが無かったのかもしれない。
ある日曜日の朝、いつもより少し早く目が覚めてしまい手持ち無沙汰になってしまったので、ちょっとした科学雑誌に書かれている素人にでも分かる(らしい)相対性理論の解説を眺めてみた。
光の速さは一定である、だとか、「同時」は全ての観測者にとって「同時」ではない、だとか。
ともかく誰もが耳にしていそうなかの有名な公式「E=mc2」にたどり着くためにはいくつかの仮定と大いなる想像力と多少の計算力が必要らしい。
ちょっと早く起きてしまった日曜日の朝、読んでも何のことだかと分からない雑誌と悶々とした格闘の時間が過ぎていく。
まあそのうちビールでも飲みながら気楽にやってしまうのだけれども、まったく非生産的でもあり、これこそ誰かの為にとするものではない。
もっとも学生の試験勉強と違い、この場合、自分の為にもなっていないのだから、そんな事を始めてみようと思ったこと自体がおかしいのだけれど。
だって「相対性理論」が分かったからといって、それを有効に活用するような場はまず無いだろうし、
お酒の席の小ネタにすらならないし、もちろんそれを知ったからと言って女の子にもてる訳でもなく、
―むしろそんなことがばれたら胡散がられるぐらいなのだから、―普通は時間の無駄ぐらいにしかならないのだから止めておいた方がいい。
せめて自己満足の足しになるぐらいだ。
だけれどもこの誰のためでもないというのは、前述の定義を引用すれば、「道楽」にしっかり分類されるのかも知れない。
実はここ北陸地方に住むようになって数年、職場の人に誘われてジョギングをするようになった。
マラソンと言わないところが、少しばかりの謙虚さから来るのだけれど、特に健康を意識してだとか、そんな類のものではない。
もちろん誰かとタイムを競ったりするわけでもなく、理由も無くそこらあたりを走り続ける。
例えば同じ距離を移動するのであれば、車やバスなんかを使えばもっとも効率的に
―ここで言う効率的というのは、もっとも時間単価のかからない方法で―
移動することができるだけれど、それをわざわざ額に汗をかきながら走る。
サラリーマンには、言うほど自由な時間は少ないのだけれど、その少ない時間の中からどうにかしてジョギングの時間を見つけ出し、一人で黙々とジョギングを続ける。
よく周囲から「それって楽しいの?」だとか「いったい何を目指しているの?」なんて聞かれたりするのだけれど、もちろんそこには目的なんてものはない。
「職業」として誰かの為に、もしくは、生活の為に走っている訳ではないのだから、そこには多分、理由なんてものも無いのだと思う。
楽しいか?走っていて苦しいことはあるけれど、楽しいことがあるわけ無いじゃない。
体育の授業みたいに強制されればなおさら苦しいのだけれど、自発的に走ったところで苦しくなくなるわけではない。
だけれども、この誰かのためにはちっとも役に立たないこのジョギングというのは、これもまた「道楽」といえるのだろう。
夏目漱石の言う「道楽」は他人本位ではないけれど、けして社会との整合性に矛盾するものでもない。
自己本位と社会と整合しない自分勝手は少し違う。
そして勝手な想像だけれども、人生の中でこの「道楽」という時間が増えれば増えるほど、人は豊で幸せになれるのだと思う。
けしてそれはお金を浪費するだとか、そんな類の道楽ではなく、自己本位な時間をどれだけ過ごすことが出来るか?
僕はそんな道楽者になりたいのだと思う。
ロブロイの扉を開けるときは、けして誰かのためではない。
ロブロイストの人々にとっては、まあ当たり前のことなのかも知れないのだけれど、
だけれども世の中、よくよく見渡してみれば、誰かの為に飲むお酒と言うのも結構あるものだ。
サラリーマンだったら会社の付き合いだとかなんだとか。
特に下戸の僕にとっては、普段から外でお酒を飲むような習慣がないので、むしろお付き合いで飲む方が多いのかもしれない。
精神的な自由というのは、意識しなくてそんなに簡単に手に入るものではない。
まして、この御時世、経済的な自由の方は、―少なくとも僕の今年のボーナスを見る限りにおいては―ままならないことが大いにあるとは思うけれども、
僕は他人のためではなく自分のために、そう誰もが羨む道楽者になるためにロブロイの扉をくぐりたいのだと思う。
とまあ、意気込んでパソコンの前に座ってしまったのでちょっと支離滅裂で堅苦しい文章になってしまいましたが、
宝くじなんかが当たって早く経済的な自由を手にする日が来ないかと夢をみつつ、―結局それか?なんて言われそうですが―
その日がくればいつでもすぐに「真の道楽者」になれるように日々精進しておきたいと思います。
その時は、もう少しお酒が飲めるようになって「ロブロイスト=道楽者:お酒が飲める自由人」に近づけるのかもしれません。
もう僕の隣には黒ビールの空き缶が多数散らかって来ていますが、酔っ払いの戯言として御容赦頂ければ幸いです。
なんといってもこの文章も誰のためでも無く自分のために「道楽」として書かれた物なのですから。