岩片健一郎
建築を学びながら、演劇活動にあけくれていた学生の頃、“農村歌舞伎”というものに出会った。
かつて様々な地域で行われていた農村歌舞伎は、農民が五穀豊穣を祝う祭りの要素も兼ねていたという。
地道な日々の農作業と“ハレ”の日となる祭り。舞台に立つ役者となる農民は、農作業を終えてから、夜稽古に励む。
日常の中に“ハレ”の時間が混在することで、心のバランスを保つひとつの手段になっていたのかもしれない。
演じるという行為と、農作業には、相通じるところがたくさんあるように思える。
同じ場面を毎日毎日稽古することで、役者は演技を積み上げてゆく。同じことを繰り返しているようで毎日違う。
本気で稽古することによって、同じ言葉の発し方にも、いろいろな発見がおこり、言葉をなぞることに嫌悪する気持ちが湧いてくる。
たとえば、昨日までは“親父さん、ありがとう”と、一呼吸で言っていたけれど、
親父さんの後で、少し呼吸を入れてみたほうが、感情が伝わりやすいんじゃないか、というようなことが……。
私は農作業に携わったことは無いので、これは推測になりますが…。
農作業にはひとつの作物を作るのにサイクルがあり、毎年毎年同じことの繰り返しのように思える。
けれども少しずつ技術が改良されていったり、天候によって、作業の日程を変更したり、
毎年違う課程をたどっているのではないかと思います。そこには、本気で作物と戦っている農民がいます。
そんな農民には、農作物と戦う日々と、芝居と戦う“ハレ”の日に、それほどの差を感じていないのかもしれない。
農村歌舞伎の芝居小屋がたくさん点在している小豆島を訪ねたのは20年ほど昔のこと。
傾斜地を利用して建てられた古い木造の芝居小屋は、まわりを高い木立で囲まれて、傾斜地の客席には下草が生えそろい、
日中なのに木漏れ日以外は入ってこない。そこは涼しく、深閑としたたたずまいで、少し神々しさが漂う。
人気のないその傾斜地に座っていると、何か目には見えない力を感じることができた。
ここで農村歌舞伎を見てみたいと思った。
海を借景としている芝居小屋は、その前に広場があり、その先に石垣を組んだ自然の客席がある。
五段くらいあるその客席は、横幅が100メートルほどにわたって広がっている。どこに座っても広大な海が目に入ってくる。
それぞれの小屋に歴史があり、古風な感じを受ける。小さいけれども、それぞれに人力で動く廻り舞台の仕掛けも見て取れた。
機会があわず芝居を見ることはできなかったけれど。
私が再び訪れたのは、同じ年の10月16日。小豆島が秋祭りの最中で、毎日、日替わりで場所を変えて島内で祭りが行われていた。
毎年この日には池田という地区で行う。そこは先に書いた海を借景とした芝居小屋と、広大な石段の客席がある場所。
農村歌舞伎の芝居は見られなかったけれど、同じ場所で行われる祭りを是非見てみたいと思っていた。
そこで場所が変容する様を見届けたかった。
朝、小豆島の様々な地区からここ池田に御神輿が集まってくる。中には舟に乗せられて、やってくるものもある。
この御神輿が圧巻だった。小さな舟の舳先にお面をかぶった道化が二人たち、お囃子にあわせて舞っている。
海の上の舟と御神輿、その前で身体を大きく動かしながら舞っている道化。それが段々とこちらに近づいてくる。
ゾクゾクするような時間がしばらく続いた。とても至福な時間。この道化の舞で一気に“ハレ”の日に空気が様変わりした。
御神輿は、坂道を登ったお寺の境内に集められる。
石段の客席には、目には見えない境界線があり、檀家によって場所が決まっている。
江戸時代のこの客席の、檀家名入りの図面が現存しているから、現在もそれにならい決まっているものらしい。
シートを敷き、日よけを作り、思い思いに弁当を広げ酒を飲み、歓談しながら祭りが始まるのを待つ人々。
借景の海は、日の光を浴びてキラキラと光っている。芝居小屋は、貴賓席とお囃子席を兼ねていた。
池田が“ハレ”の場所に様変わりしている。
この島の御神輿は、朱色の綿入り布団のようなふっくらとした屋根がついていて、
その下のやぐら部分には4人子供が乗って、太鼓をたたいている。
祭りの本番、お寺の境内から順番に、御神輿が広場に集まってくる。
御神輿は、2台ずつ広場に入れられる、上手と下手にわかれた御神輿が、笛の音を合図に、一斉に片側に90度傾けられる。
その際に屋根の朱布団が地面につかないギリギリの状態をどれだけ長く保っていられるかを競い合う。
ものすごい怒声とかけ声、ギシギシと軋む御輿、それを力一杯支え続ける担ぎ手たち。
地区によって色の違った法被を着た半裸の若者たちが、歯を食いしばる。
御輿のまわりでは、担ぎ手に合いの手を送る、大きな団扇を持った人が数人。
そのたたずまいから、地区それぞれの個性が見て取れるのが面白い。
あきらかに酒気を帯びた担ぎ手たちが、“ハレ”の身体になって満身の力を振り絞っている。
ひとりひとりが役者であるかのように……。