熊本正治
数年、止めていた煙草を一年ほど前から吸い出した。
再煙の切っ掛けが何だったかは全く忘れてしまったが、禁煙とは違い極々すんなり生活の一部として自分の中に取り入れられた感がある。
とは言え、昔の一般の喫煙状況とはかなり違っていた。嫌煙運動なるものがこの世に蔓延(はびこ)り当然の事ながら、
喫煙のマナーもうるさくなって来ていた。
特に隠れて吸うつもりはなかった筈だが、必然的に我が家で吸う場所は我が住居としている三階の台所の換気扇の下。
一回が仕事場なので煙草が吸いたくなったら三階のその場所へ行き一服する。
昔は家内や子ども達の前でも平気で吸っていたが、これも間接喫煙の弊害とやらを考え、
他人に対しても思いやりを示すべく(?)人前では吸わないスタイルを貫いてきた。
ただし、酒場と名が付き、灰皿が置いてあればここぞとばかり思いっきり大胆に煙草を吹かす。
昔から酒と煙草は深い繋がりを持っていたに違いないと確信しながら・・・・・。
しかし二週間前から、特に健康上の目的という訳でもなく、経済的な理由からでもなく禁煙を始めた。
前に止めたんだから今回もすんなり止められるだろうと思ったのが大間違い。禁煙に関する後悔が脳全体を支配する。
色々喫煙のための言い訳も次から次へと吹き出してくる。
何故こんなに辛いのか、思い当たる一番大きな要因は、前回の禁煙は家族に支えられた事。
吸いたくなると家内からやさしく咎められ、限界が近づくとまだ幼かった二人の息子からの
「お父さんてやっぱり意思が強いんやね!」のひと言で乗り越えられて来た。
が、今回は孤軍奮闘。二週間の禁煙で一人もがき苦しんでいるのに、家内は禁煙している事すら気付いていない。
別に再び禁煙を始めた事を人に大袈裟に宣言するつもりは、はなっからなかったのだから仕方がないと言えば仕方がないのだが・・・。
只々、自分の自制心に賭ける日々を送っている。
自制心・・・・・自分の感情や欲望を抑える心
広辞苑より
何故か「シンドラーのリスト」を映画館で見逃してしまった。
1940年代初め、第二次世界大戦が悪化の一途を辿り、ナチス・ドイツ軍がユダヤ人の迫害を本格的に行いだした時代背景のあの映画である。
ビデオをレンタルして観ようと何度もテープを手にしたが211分という長時間故二の足(手?)を踏んでいた。
一週間ほど前、BSで放映されるというのでとりあえずビデオに収めた。見る事が出来たのはその四日後であった。
戦争映画は観る人間にひととしての課題を突きつける作品が多い。この映画も視点の角度を五度変えただけで、
がらりとものの見方、捉え方に変化が生じる。様々な事を考えさせられる映画だった。
感慨深い、思考させられる場面が次から次へと出て来たが、その中で敢えてここではひとつだけ。
ユダヤ人収容所、所長とシンドラーの酒の席での一場面。
所長はしたたかに酔っていた。シンドラーも同じくらい飲んでいる筈なのに酔った姿はない。
そんな彼に所長は「君をずっと見ている。見ているが君は酒に酔わない。自制心か!」そして「自制心とは力なのか!」と問いただす・・・。
私はその場面を通し、流れて行くストーリーの展開に、自制心とは人間の心の力を表すひとつの重要な言葉だと感じた。
戦争はひとから自制心を奪い、ひととして何が正義で、何が悪かすら理解不能にさせてしまう。
愛とは対極、ひと言では言い表せない人間を造り出して行く。それをまざまざと思い知らされた映画であり、人の弱さを表現した一場面でもあった。
この映画を観たひとも、まだ観ていないひとも今一度、色々な視点と心で、時間に余裕がある時にご覧になられたら如何だろうか。
少なくとも、平和と思われている?この時代、私の禁煙に対する自制心がいったいどこまで継続するのやら・・・・・。