牢人生
神を信じることをせず放蕩の限りを尽くしていた商人が、ある夜、悪魔の罠にかかり、百十一の扉がある牢屋に閉じ込められる。
扉の向うには何があるかわからない。
自由への扉かもしれないし、地獄への扉かもしれない。
ただ、一つの扉を開くと、他の扉は永遠に閉ざされてしまう。
商人は、一つの扉を選べる。
しかし、選べるのは一つだけ。
そこは神の意志の及ばない空間で、どの扉を開けるかは商人次第、神の慈悲を請うこともできない。
部屋には姿なき牢屋番の声が響き、商人と問答する。
商人・・・・「扉がみな同じならば、どの扉から出ても同じだろう?」
牢屋番・・「開ける前はみな同じだが、その後ではちがう」
商人・・・・「つまり、選ぶ理由は何もないということか」
牢屋番・・「理由はまったくない。おまえがおのれの自由意志で決めたというほかは」
商人・・・・「どうして決めることができるのか。扉がどこに通じているのかわからないのに」
牢屋番・・「それを知っていたことが一度でもあるのか。生まれてからこれまでというもの、おまえはあれやこれやと決めたときに、理由があると信じていた。しかし、真実のところ、おまえが期待することが本当に起こるかどうかは、一度たりとも予見できなかったのだ。お前の理由というのは夢か妄想にすぎなかった」
そして商人はひとつの選択をする・・
童話「モモ」の作者として知られるミヒャエル・エンデは、その作「自由の牢獄」でこんな話を書いている。
テーマ自由、字数自由。
この原稿の依頼を受けた時に頭をよぎった気持ちを表そうとしたら、なんだが、おどろおどろしいものになってしまった。
しかし、完全な自由は不自由である。
その不自由に悩まされていたらあっという間、いま、8月31日は23時になってしまった。
そんな原稿の依頼主は云うまでもなく、ロブロイの主である。
ロブロイを訪ねたのは、8月13日のことだ。
初訪である。
盆休みの予定がなかった。
そこで天気予報をみて傘の絵柄が他より少なかった金沢に行くこととしたのだ。
私の旅行はいつもこうだ。
直前に天気予報をみて、傘マークの少ない土地に行く。
だから、たいてい2日前ぐらいに旅行先を決める。
そして、もう一つの流儀が、1泊につき必ず1バーを訪ねること。
初訪のバーに入る時の気持ちは、件の商人と同じである。
しかし「自由の牢獄」と違うのは、一つ扉を開いても、他の扉が閉ざされることはないということだ。
日々扉の連続だ。
どこに行き、どこに泊まるか、何を飲み、何を食べるか。
そしてどのバーに入るか。
生きている間に、あとどれだけの扉を開けることができるだろうか。
ここまで書いてきたが、読み返してみるとまるで読書感想文だ。
稚拙な文章も、8月31日のギリギリにならないと書けないということも。
一番見つけたい扉は、読書感想文を脱する扉だ。
少なくとも、次にロブロイの扉を開ける時までには。
<ロブロイストの日々> 毎・月始め更新いたします。