中村康
『そこのかどに洒落たバーが出来たんだって。一緒に行こうよ。』
やっとのことデートにこぎつけ、何処に行こうかと思案してた時不意に彼女に言われ、
僕は気乗りしないまま相づちをうち、言われて入ったのがあの店だった。
そして、カウンターの中に小柄な彼は立っていた。その店が喫茶店だった頃と変わらず、白いワイシャツに細身のネクタイ姿で・・・。
5年以上の月日が流れ、僕は会社を辞めて好きなバイクのために、アルバイトを4つ
掛け持って生活していた。カウンターに座ると、
『困るんだよね〜。月イチ位しか来なかったのに何年も経ってから急に常連ぶるの・・』
彼はニヤニヤしながら僕に話し掛けてきた。
『ふ〜ん。もうお酒の飲める年になったんだ、何にする?』
しまった!僕はお酒が飲めない。しかし今更いつものカフェオレというわけにはいかない。
あわててメニューの2番目の文字を読み上げた。
『そうだなジントニックがいいな。うん二人共それでいい』
真空管アンプのフィラメントを遠めに見ながら・・・というより、無理に飲んだ3杯目の頃には意識が遠のいていた。
その店は商店街のはずれにある。
東京都下の地方都市にしては、こだわりのあるたたづまいだ。長い間、使い込まれたカウンターに
真空管アンプを基にしたオーディオセットとスピーカー(それも店主の手作りだ。)
丁寧に磨かれ、使い込まれたひとつひとつが彼の好きなものと、こだわりだけで置かれている。
その店に始めて入った時は僕はまだ高校生だった。近所の楽器屋のアルバイトのお兄さんに連れられていったのが最初だった。
当時僕はまだ子供で、ハードロックとフォークをこよなく愛する僕にジャズ喫茶なる場所は気恥ずかしく、
敷居が高いように思えたが、尊敬する兄ぃ(彼はブルースギターの達人で当時六本木ピットインでライブに
出演するほどの腕前だった。)が『違うジャンルの音楽も、人生の歩いていくうえではいいよ』と言われ、ついて行った気がする。
Chakiと読めるウッドベースがショーウインドウに置かれており、店に入るとカウンターには小柄な彼と、
彼よりさらに小柄な美人の奥さんが笑顔で立っていた。兄いに紹介されて挨拶をすると、
『僕は君を知っているよ。ほら、そこの電子部品屋でたくさん何か買い込んでいるよね。何作っているの?
ああエレキ・ギターのエフェクターかぁ。最近の若い子で自分でモノをつくる人が珍しいから勝手に見ていたんだけどね。』
僕は驚いてしまった。当時いくつか掛け持っていたバンドで、ボーカルのかたわらギターを少し弾いていたので、
自身が持っていたMXRのエフェクター(ディストーション+ブースター)をばらして回路をコピーし、
市販の4割5分程の値段でバンド仲間に売っては小遣い稼ぎをしていた。
もちろん兄いにも重宝されて、楽器屋の客のエレキ・ギターにブースターを組み込む仕事をもらっていた。
yassなる名前の、見栄えの悪い海賊エフェクターは100台は作った。(話が脱線した)
僕はこの店で、色々なことを学んだような気がする。といっても日曜は休業、平日も夕方7時閉店のここに、
遊び盛りの高校生が行くのは、月に1〜2回程度であったが
(それもデートの時がほとんどで、ロクに話をしたというわけではないのだが)、
ブルース基調のケニ−・バレル、ウェス・モンゴメリーのギターやトランペットのチェット・ベイカー、
そしてよき時代のアメリカンPops(キャロル・キングやロバータ・フラック)など僕の音楽の趣味の基本は、
この17才の頃につくられたとも言える。(17歳の頃といえばジャニス・イアンとか・・・)
そのうち僕は都会の喧騒に埋もれる生活をするようになり、この店に来ることが減ってしまい、
風の噂では店主の彼も離婚をして、いつのまにかシャッターが下りたままになっていた。
それから20代の僕は、何度かはその店に足を運ぶことになるけれども、その2年後には結婚をした。
30代になって独身に戻るまで、その店で音楽を聴くことはなかった。
彼と再会したのはその界隈にあるカラオケスナックだった。確かほとんど泥酔していた彼がリクエストした
トニー・ベネットの『思い出のサンフランシスコ』を来店したばかりの僕が、彼に代わって歌ったのがきっかけだった。
最初はお互い気付かなかったが、足取りもおぼつかない彼が帰る頃になって、
『また、遊びに来てよ。趣向が変わったけど4時まで開けているからサ』
その週末、僕は初めて一人で店に入った。笑顔でカウンターに座ると、
『困るんだよね〜。月イチ位しか来なかったのに何年も経ってから急に常連ぶるの・・』
彼はニヤニヤしながら僕に話し掛け注文も聞かず、ジントニックとミックスナッツを置いた。
店の中はあまり変わってはいなかったがあの頃と少し違うのは、僕と同じ年頃の若いバーテンダーと、
小難しくモダンジャズを語る客層くらいだった。
『これ今でも聴いている?』
あの頃、僕の一番お気に入りのアルバムだったチェット・ベイカーのアルバム『Sings&plays』のCDを取り出し、
店の中のしたり顔の小難しいモダンジャズ(音楽がではない!それを作り出しているのはジャズ通と言われる人達である)の空気、
ウェストコースとジャズのトランペットは一掃したようではある。バーテンダーのキャラで客層が違うことを感じながら、
僕は3杯目の途中で店を後にした。
以後、この店に行くのは客の退けた午前2時過ぎとなり、8年も通うことになった。
その途中、もう一人のバーテンダーをめぐるイザコザがあったみたいで、客層ががらりと変わり客は減ったが、
彼は今でも一人で店を続けている。僕は月に1度か2度ぐらいの常連として毎回、
『困るんだよね〜・・』
に続く会話と(この会話にはバリエーションがあり、続けて何回か来店すると
『困るんだよね〜。そうやって頻繁に来るようになると、また何年も来なくなっちゃうからさぁ。』とも言われる)
ジントニックとチェット・ベイカーはこの店で僕の定番となっていた。長期出張中も
(金沢への2回の滞在の他、この7年間いろいろな所に行った)月に1度の帰郷には、
前述の定番を繰り返し、それが永遠に続くものだと思っていた。
僕の転勤が決まり、出発となる前日までの毎週末、彼はもう定番の会話を言わなくなった。そして最後の日に一言、
『そんなに頻繁にくるとお別れみたいだからさ、月に一度がいいよ』
と言ってカウンターに引っ込むと、小さな紙袋を持って来た。袋の中にはゴードン(ジン)のボトルと、
シュエップスのトニック・ウォーターが2本、ライムが2つ・・・。
『もう何年も見ているからつくり方は分かるよね?』
『今日の御代はつけとくよ。来なくなっちゃうと僕も困るからね』
曲はいつのまにか終りに近づいていて『I remenber you』が流れていた。
僕はたまに、まだ住み慣れない新居で夜遅く、ひとりでジントニックを作りながら彼の『困るんだよね〜』という言葉を聞きに、
少しは暇になる春には生まれ育ったあの街へ、足を伸ばそうかと考えている。