榎本 剛士
前略 先日、片町の「ロブロイ」というバーで、不覚にも、あなたを(glen・grant様を)早々カウンターにこぼしてしまった者です。
覚えていらっしゃいますでしょうか。
あの日は、ちょっと落ち込むといいますか、鼻持ちならない話を職場で聞かされたところでした。
考えれば考えるほどに沸々とわき上がってくる怒りと悔しさは、僕を薄暗い、あなたがかつて居たスコットランドの、フォーク・ヒーローの名を抱く場所へといざないました。
あれは、悶々とした一見の若僧にもマスターがちゃんと話かけて下さったのが嬉しくて、ぴんと張った心の糸が無防備に緩んだ瞬間のことです。
やや困った表情で、「これをすすってもいいくらいですよ」と呟きながらあなたを拭うマスターの手は、僕を優しく圧倒する、酒への豊潤な愛を含んだ川の流れのようでした。
そして、「しょうがないな」という面持ちで、流れに過ぎ去っていったあなたの影をほんの少し、追いかけられるだけの量をもう一度、
マスターがショットグラスに注いでくれた時、ボトルから湧いて出たものは、「男」として生きることを運命づけられた年若な同士への慈しみであったようにも思います。
ただ、あのあと、僕の心には、言葉にならない、遣り場のない気持ちが込み上げてきました。
華麗な花の蕾を、一滴の水すら与えることなく、無残に踏み潰してしまったことへの、無念だったか。
いかにも「酒場慣れ」していないことが露わになってしまったことへの、激しい羞恥だったか。
いつかあなたが眠っているカスクへと舞い降りた天使たちが仕える神への、無言の懺悔だったか。
あるいは、怒りと悔しさの海風に呑まれた不始末にマスターを付き合わせてしまったことへの、深甚なる恐縮だったか。
嵌まった者を逃がさない泥のように、いつまでも熱を失わない炭のように、僕に纏わりついて離れない、なかなか消えようとしない幾つもの情念が、まるで心の地層となって堆積していくかのようでした。
あなたが奇しくもカウンターの上に描いた、瞬く間の、少し不格好な脚線美は、僕とあなたが紡ぎ出した一瞬の煌めきであった、と信じてもいいのでしょうか。
いま、僕は、あなたにこうして、許しを請いたい。
僕は、あなたのことを、ずっとこうして、語り続けます。
その時、僕の声の向こうには、腹話術のように、きっとあなたの「声」が大きく響くのです。
そうであるならば、僕はこれからも、酒と人との一期一会に魅せられた逍遥とともに在りたい。
「命の水」と呼ばれるあなたを「語る」ことで、あなたの「命の人」とならんがために。
左様ならば、ひとまず、ここで。
不尽