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Somekawa & vafirs

『広い道、狭い道、繋がるもの』

小鉢 優一

2015年11月6日から一泊二日で金沢へ旅行に行った。
幼い時、金沢旅行に行ったのだが、ほとんど記憶にないので、初めての金沢旅行。
金沢と言えば、日本海の幸、金沢城、兼六園などなど馳せる思いと一緒に一泊分の着替えを車に積んで、自宅のある名古屋を出発。

名古屋高速から名神と車を走らせ北陸道へ。
赤や黄色に色づき始めた山々を縫うように北陸道を北へ北へ。
「永平寺」の看板が見えた時に金沢に近づいてきたことを実感し、少し走ると、いきなり日本海が目に飛び込んできた。
北陸道を降りるインターはまだ先だが日本海が見たくなり、予定変更ですぐのインターを降りる。
砂浜の名前は忘れてしまったが、太平洋側では、なかなか見られなくなった綺麗な砂浜をゆっくり歩く。
日本海と砂浜を堪能した後、ホテルへチェックイン。

私の旅のスタイルはとにかく歩くこと。
車を使えば広い範囲を短い時間で移動できるのだが、その分、旅先での「発見」や「思い出」が減ってしまうような気がして、とにかく歩く。
金沢駅から近江町市場、金沢城、兼六園、茶屋街と歩く歩く。
金沢市内は綺麗が第一印象だった。
人々が昔から続く城を、庭園を、街並みを守ってきた歴史と時間を感じると、綺麗と言う言葉が出てきた。
金沢市内を歩き続けて足が棒になったころ、名古屋に比べて道が狭いことに気が付いた。

名古屋市内の道は広い。
その理由は、名古屋が戦争の空襲で焼け野原になったからだ。
名古屋には「戦災」と言う言葉がいまだに残っている。
戦災の復興時に名古屋の道は広くなった。
名古屋の広い道は復興の時、お役所が勝手に作ったわけでは無い。
名古屋が戦争の空襲で焼け野原になった主な理由は火災である。
一発の爆弾が木造民家の密集地に落ちれば、たちまち火事による被害が拡大する。
名古屋の人々は、我が家を、街並みを、空襲時の火災によって失った。
その教訓から、火災に強い街を目指し、市内の一画で火災が起きた際、他の区画への延焼を防ぐ目的で、名古屋の道は広くなった。

人々が守ってきた金沢は綺麗であり、昔ながらの狭い道が残っている。
狭い道は観光客には風光明媚に映るかもしれないが、日常生活では渋滞が多くなり、また、緊急車両の走行の妨げにもなっていると思う。
焼け野原になった名古屋は、人々の思いから広い道が作られた。
車社会の現代において、広い道はありがたいが、歴史を振り返ると胸につかえるものもある。

名古屋と金沢は道で繋がっていると当たり前のことに気が付いた。
もちろん、「道」はどこまでも繋がっている。
このことを日々の日常で意識することはないが、この旅で私は強く感じた。
それぞれの土地に歴史があり人々の営みがあり、それぞれの土地は、街は、繋がっているのだ。

この旅で感じた「繋がり」を意識すると不思議と温かな気持ちになる。
私たちは、多くの道で繋がっている。

文末になりましたが、金沢旅行をより楽しくしてくれた友人と、BARロブロイとの出会いに感謝し、お礼申し上げます。

<ロブロイストの日々>  毎・月始め更新いたします。