今年は「太宰治」生誕100年という事で、まあそれなりに話題?になってはいるようである。
当然それもあり、いま「ヴィヨンの妻」という映画をやっている。あえて説明する必要も無いが、原作は太宰治である。
さて我輩は特に観に行くかというと、どっちでもなく実に曖昧なのであるが「やっぱりあの太宰治」気にはなる。
それなりに遠いむかし読んだと思うが、あの“斜陽”も含め、我が本棚をひっくり返せば何冊か出ては来ると思うが、めんどくさいので散歩がてら県の図書館を覗きに行った。
我が家から二キロちょい、ちょうどいい距離である。
もちろん目的は「ヴィヨンの妻」であるが、所詮中篇(短編か)「人間失格」含め、晩年の作品五編が載ったちょうどいいのがあったので借りてきた。
太宰は当然純文学となるのであろうが、もともと純文学と大衆文学とどこで線引きするのかよく分からない。
もっとも明らかに「これは大衆文学だろう」というのはそれは間違いなくあることは事実だ。
もうちょっと曖昧なのが私小説と純文学である。これは思うにたぶん分けて考える必要の無い物なのかもしれない。
純文学のなかに私小説があるのかもしれないし、私小説から発展?した物が純文学なのかもしれない。
・・・こんな事を僕ごときがゴチャゴチャ言う(書く)必要も無いのだが・・・。
まあちょっと書いてみたのは今回借りてきた、ヴィヨン初め、人間失格、グッドバイ、トカトントン、桜桃など読んでみる限り、私小説になるのでは?と思うのである。
しつこいがむかし太宰の後見人とも言うべき「井伏鱒二」が何かの対談で言っていたようなきがする。
「随筆でも私小説でも嘘を書けば小説になる」といっていたが、何となくハハァ〜とその時“納得”したものである。
しかしそれが何かが“分かった”訳でもないが。
ともかく井伏鱒二式?でいくと太宰の場合、私小説の中にちょっと嘘を入れ、小説のなかにちょっと私的(事実)な部分を入れている。という事になるのかもしれない。
さて読んでみるとヴィヨンでも桜桃でもトカトントンでも、読んでいてまぁ〜重いし、暗〜くなる。
ヴィヨンに限らないがフラッと呑みに出てはしばらく帰ってこない。しばらくというのは3〜4日であったり一か月であったり。
夜中にふらりと帰ってきては嫁さんとまだ小さい子ども(といってもヴィヨンの作中では4歳でありながら貧乏なため、栄養失調でまだ2歳くらいの体重しかなく、言語もアゥ〜、バブ〜といっているくらい。
嫁さんはそんな我が子を見ながら泣いている)とその二人が寝ているぼろぼろの布団へもぐりこみ、「寂しいよう・怖いよう・死にたいよう」と泣き出す。
う〜ん、いたたまれなく重い。
何でこんな暗い小説を読まなければならないのか、と思うがそこは天才・太宰。ちゃんと最後まで読ませる。
「ヴィヨンの妻」に措いては、詩人であり、我がママで当然ハチャメチャ生活、という設定であるが、(太宰の実生活そのままだ)太宰にしては珍しく“最後は以外にも?”という結末が待っている。
結局太宰はやっぱり、すごい。
冒頭に書いたがこれといって映画を観にいく気はなかったのであるが、あらためて原作を読んでみて、これはちょっと行って来るか、という気になった。
映画といえばあの「マイケル・ジャクソン」は行かねばなるまい。
それとまったく方向は違うが「かもめ食道」「めがね」でお馴染みの小林聡美ともたいまさこのゴールデンコンビ(と僕は思っている)その二人の出演する「プール」どんな内容なのか全く知らないが、間違いなく「面白い」はずだ。(関東の方ではもう終っているらしい)
お爺ちゃん、お婆ちゃんもお誘いし皆様揃って観に行きましょう。