中村 康
お酒の席では、いろいろな会話が繰り広げられる。
同じ職場の者同士なら仕事の話や愚痴、時には説教なんか始まったりして、バーやスナックならば個人の趣味、多いのが音楽や映画等・・・それなりの所ではそれなりの会話などそれは様々だ。
実をいうと僕は全く飲めない訳ではないが結構な下戸だ。
23歳で現場仕事に従事するまでは、全く飲めなかったわけだから無理もない。
気が付けば17年たった今でも無理を感じながら飲んでいる。
当然この業界(建築業)であるわけだから、道交法が改正された直後までは何かにつけては酒がつきまとったものだ。
飲めないなんて言っていたら、正直言ってつとまらない。
そして無理強いされる酒でも耐えなければならない。
だから酒の席はとても嫌だった。
調子のいいときはそこそこ飲めるので、意外に周囲に気付かれてはいない。
(ロブロイストから見ればその弱さぶりは明らかに判るとは思うが・・・)
今から10年ほど前、今思えばたいしたことでもないが人生の難関に直面した。
そこから逃げ出すかのように、狂ったように飲み歩く日々が続いた。
何もかも忘れ逃げ出したい、酒に飲まれ、つぶれたいと考えていた。
少しだけ自暴自棄だったのかもしれない。
その頃の友人や会社の同僚にはずいぶんと迷惑をかけた。
ただただ黙っては飲み、そのうち酔いつぶれてしまう私を介抱するのだから・・・クダでもまいて、愚痴のひとつでも言えばまだそれらしくてマシだったかもしれない。
しかし、その問題がすべて片付いた時、嘘のようにその生活はパタッと収まった。
そして、それからは一人で静かに、時には楽しく騒がしく飲み歩くようになった。
前置きが長くなった。
隠れ下戸の僕でも、酒場の雰囲気やそこで繰り広げられる様々な世界は好きだ。
いや、ある種の知的好奇心を満たす場所でしかこの言葉は使えないのだろうが、仕事の延長ではなく、一人で飲み歩き始めた頃がたまたま良かったのだろうか。
ひとりの飲み友達によってお酒に対する見方が変わった。
酒場で知り合う人と親しくなったのは彼が初めてであった。
彼の名はフ〜さんという。
年にしてふた回り近く上だから、友達というより大先輩だ。
彼と知り合ったのは繁華街からちょっと外れた、あまり流行っていないカラオケスナックである。
マスターに名前だけ紹介されてお互い素知らぬそぶりが2回ほど続いた。
きっかけはある日買ったばかりのカメラの中古レンズだ。
その頃は写真を始めて一年くらいだったろうか、広角の薄いパンケーキレンズというやつである。
彼は一言『広角のパンケーキなんて粋だねえ』と話かけてきた。
その頃は写真の知識などあまりなく・・・とはいっても現場では機械式のマニュアルカメラを使っていて、そこそこの技術はあった。
ピントの深いシャープな画像と明るい写真が中心の建築現場の施工写真だが・・・いつも現像を出していた写真屋のおやじの勧めで様々なアマチュアカメラマンを紹介されてうんざりとしていた。
どの趣味の世界にもいえることだが、知識や技術ばかりが先行しすぎて、結果ばかりを評論するのはなぜだろう?
彼らはまず機材自慢から始まって、難しいフィルム、露出、構図とうんちくが多い。
『そんな奴らの話なんて聞き流しおけばいい。大事なのは気持ち。きれいだなと思う心があればいい。ピンボケでも写っていればそれはyassの写真だよ。』
この言葉にどんなに励まされただろう。
思うがまま好きに撮って、失敗してからたまに考えてみたらいい。
アマチュアには失敗できるのが特権なのだから。
そして、彼は僕の写真を見るたびに自分が感じた心情だけを語ってくれた。
『こんな懐かしい気持ちにさせるのは、テクニックを越えた何かだから・・・その人となりだけは変わらずに持ち続けていて欲しい』
彼の唯一のアドバイスだった。
それからはそのフ〜さんとよく飲み歩いた。
音楽の趣味、映画の趣味、カメラの趣味と接し方、嗜好が似ていたのでとてもうれしかったし、互いにバツイチ独身なので気兼ねなく遊びまわった。
傍から見ると不思議なコンビでもあった。
互いに名前も知らない仕事も知らない、でも、大概はどちらかが会いたいと思っていると、昼間の喫茶店や本屋他で顔を会わせるので・・・約束なんて必要がなかった。
言ってみれば、同じ水域に存在しているようでもあった。
そのフ〜さんと一度だけ、約束をして会ったことがある。
一日だけ人手が足りないので彼の仕事を手伝って欲しいとの事だった。
待ち合わせてから行った先は写真スタジオだった。
なんと彼は、地元では有名なミニコミ誌を作っている会社をやっていて、自身もカメラを持って取材に出かけている、プロのカメラマンだったのだ。
元々は銀行員だったそうだ。(あとから人に聞いた)
で、その頃に融資先の人に誘われて今の仕事を始めたんだという。
『来月で、この会社を人に譲って俺は田舎に帰るから、最後にお前と仕事がしたかった。今まで黙っていてごめんな。』
それから何週間かしてから彼はその町を去った。
今では何をしているのかはわからないが、年に2度の写真葉書が届いているところをみると、元気なんだろうと思う。
あれから10年近くが過ぎ、色々な場所でいくつもの店を飲み歩いている僕だけど、独特の空気感のある店には気の合う人との出会いもあり、それにより自身も創られていく、という事をお酒に学んだように思える。