西川正一郎
「エリック・クラプトンばりに凄いね。」
ほとんどの人が、こう言われると嬉しいだろう。
むろん私は、言われそうになったことも無いので、どれくらい嬉しいか推し量ることは不可能である。
ただ、この言葉は(イヤミでは無く、本心から言っているという前提で)発する人の年代によって、ニュアンスが異なるらしい。
一般論ではあろうが、私ぐらいや私から上の年代の人たちは、1960?70年代のギンギンに弾きまくるクラプトンを想像してその言葉を使う。
少し下の世代となると、90年代に発表されたアコースティックバージョンのレイラを渋く弾いているクラプトンを例えて言うらしい。
イラストレーターのみうらじゅん氏曰く、世の中の“おじさん”“おばさん“が若い世代からケムたがられるのは、小言を言うのはもちろんのことだが、「たとえ」が古くさく理解しにくいからだそうだ。
「ダイアナ・ロスみたいやな」と「ビヨンセみたいやな」では、二人は活躍している時期は全く違えども、おそらく同じような意味合いを持つ“たとえ言葉”だが、現実味が少しばかり乏しいので、それほどの世代の違和感は感じない。
しかし、「まるでエノケン」と「まるで大泉洋」となると、とたんにギャップが生まれる。
「カリスマ性は力道山並み」と「カリスマ性は武藤敬司並み」だと世代間以上の物を感じざるを得ない。
スピードを出しすぎる運転手に向かって、「お前はシューマッハ (氏の早期回復を祈念する) か!」と言うのと「お前はセナか!」、さらに「お前はジョン・サーティースか!」とか「お前はファンジオか!」というのでは、それらの違いはもう説明不要だ。
「松平健に似ている」と「マツケンに似ている」では同一人物に関わらずクラプトンと同様に微妙なニュアンスの差が出てくる。
「大きさはチョット前の携帯電話ぐらいです」
これは、はたしてどれくらいの大きさか。
私はズボンのポケットに入れると邪魔になるくらいの大きさを想像する。
それを前提に10代20代の人たちに当たり前のように言うと、もっと小さい携帯電話を想像している彼ら彼女らには、通じないばかりか、しまいには邪魔くさいオッサンやな、と思われてしまうだろう。
自分がオッサンだと認識した上で、私がネタとして使うフレーズに、「自分は草刈正雄に似ている、とよく言われます」と言うのがある。
若い人はキョトンとして固まるが、私はその相手の反応を見てほくそ笑む。
そして、説明しながら若い人との会話の糸口を見つけたりする。
何が印象に残ったかは全く覚えていないのだが、自分の中で草刈正雄が二枚目俳優の代名詞なのである。
草刈正雄がどのような人物かわかる人にも、すぐに冗談だとわかってもらえるので、それはそれでその後の展開はある。
会話の展開としてここ最近は、来春開業予定の北陸新幹線が出てくることが多い。
新幹線イコール“夢の超特急”。子どもの頃によく聞いたこのキーワード。
実のところ、もはや死語らしい。
引用として使用する場合は注意しないと“古くさい言葉”と取られる可能性が大だ。
また、“ひかり号”は速さの象徴だと思っていたが、今や“のぞみ”が最速列車であり、新幹線ひかり号は“遅い”イメージがあると、ある人から指摘を受けた。
改めて無知さと自分の意識改革の必要性を感じさせられた瞬間であった。
「有名人で“小柳”と言えば誰?」
小柳(こやなぎ)と聞いて思い描く有名人は誰だろうか。
ロブロイストの日々をお読みのほとんどの諸兄方は「小柳ルミ子」と来るだろうし、ご子息ぐらいの年代なら「小柳ゆき」と来るかもしれない。
その下の世代となると全くわからないので、ネットで検索してみるとAKBやらNMBやらに「小柳有紗」という人がいたらしいので、その名前を挙げる人もいるだろう。
“たとえ”が古くならないためには、小柳といえば有紗(ありさ?)と答えるような意識改革、というよりもそれに準じる訓練が必要であろう。
私はと言えば、迷わず「小柳トム」と答える。
こんな答えはホント邪魔くさいオッサンの極みである。
しかし、ネット検索で「小柳心」と「小柳友」と言う若手の人物もいることがわかった。
小柳トム(現ブラザートム)の長男次男で、俳優をしているらしい。
これからは小柳と言えば「小柳トムの息子の心と友」と答えるようにしようと思う。
決して“たとえ”が古いとは言わせないように。
今月はソチオリンピックが行われる。
日本選手団には、東京タワーの高さを超えるような大飛躍と、札幌五輪での笠谷選手に続くような活躍を期待する。
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