日蓮宗の曼荼羅形式の密教的本尊はまぎれもなく、日蓮ご自身がご顕現されたものであり、
一部の日蓮系は、釈迦仏を本尊などとしているが誤りである。
大曼荼羅御本尊は、「法華経の世界或いは比叡山天台法華宗(密教も含む)」を表しているとも言える。
或いは、真言の影響を受けている。
馬鹿な坊主が六字名号或いは十字名号がモデルであるという「珍説・トンデモ論」を吹聴しているが、
これは曼荼羅であり、単なる掛軸ではない。

日蓮宗の御本尊には、不動明王、愛染明王が、左右に種字で書かれている。天台密教の影響だけでなく、高野山の法華経寺院「五坊寂浄院」に潜入していた日蓮は、法華経が密教の根幹である事を知っていた。なんと不動明王と愛染明王を脇侍としている(笑)。不空三蔵の著作、成就妙法蓮華経王瑜伽観智儀軌じょうじゅみょうほうれんげきょうおおゆがかんちぎき、を典拠とする法華曼荼羅と言うのもあるが、日蓮はそれもおそらく見ているであろう。不空三蔵も法華経が密教である事を知っていたのである。因みに日蓮は、高野山にて覚鑁聖人の著作、五輪九字明秘密釈(真言の側から阿弥陀をどう見るかの問題についての論文らしい)の書写を行っているこれは中山法華経寺所蔵だ。


記事

花押のバン字からボロン字への変化に、日蓮大聖人の内観世界を思う

引用https://buddhist-study.jimdofree.com/

日蓮大聖人の「花押」がバン字型からボロン字型に変化する時期について、曼荼羅本尊ではNO49・弘安元年七月日から、書状では弘安元年六月二十五日の「日女御前御返事」からとされていますが、その経緯は「興風」第17号での山上弘道氏の論考「日蓮大聖人曼荼羅本尊の相貌変化と法義的意義について」に詳述されています。 一部を引用します。(pp345〜346) さてではバン字型花押からボロン字型花押への変化には、一体どのような意味があるのであろうか。 中略 今はバン字は大聖人修学期の密号と思われる『五輪九字明秘釈』の表紙に見られる「ウン、バン」からその一字を取ったのではないか、またボロン字については一字金輪仏頂尊の種子であることから、その内実たる「諸仏如来を内包し、それに優先する一乗法」を顕すのではないか、との大黒喜道氏の見解を紹介しておきたい。すなわち大聖人が花押をボロン字に変えられた大きな理由の一つとして、「諸仏如来を内包し、それに優先する一乗法」を表すボロン字を花押に盛り込むことによって、大聖人の思想の中心が、法華経乃至その要法妙法蓮華経にあることを、確認強調する意が込められているのではないかということである。私はこの意見に全面的に賛同したい。

以上、引用の引用

弘安元年といえば、一月一日に「御義口伝」が成り、続いての「御講聞書」の講義が始まった頃。もちろん、文献学的には議論の多い書ではありますが、身延の草庵で大聖人が法華経、経典の講義をしていたであろうことは一般論としても容易に想像できるところだと思います。 身延の山で続けられた法華経講義。弟子檀越の増加により書状も増え、曼荼羅図顕も多くなる。法難を乗り越え昇華された大聖人の内面世界。その豊かな実りを門下に分け与える過程で大聖人自身も自己の仏法上のなんたるかを意識するようになり、「内観世界を顕す時」に至り、次第にその教示も「行者から教主」へと変化していったのではないかと思います。その過程で、花押がバン字からあの雄渾なボロン字へと変化していく。信仰的にはボロン字は何か、一閻浮提を支えるというか、包み込むような迫力を感じたりします。行者から本仏行者、教主へと。 バン字からボロン字への変化に、大聖人の内観世界の変化を拝見する思いとなるのです。




-----楊枝本尊-----
最も初期の御本尊、これが基本形である。











愛染不動感見記(千葉県重要文化財)
出典::https://www.pref.chiba.lg.jp/kyouiku/bunkazai/bunkazai/n171-004.html




重要文化財(古文書)指定日

昭和43年4月25日

所在地(所有者)

安房郡鋸南町吉浜453-1(妙本寺)

概要

 日蓮聖人が感得した愛染明王と不動明王を自ら描き、弟子に与えたもので、2幅からなる。

 「愛染感見記」(写真)は、縦31cm、横50cmで、中央に愛染明王を描いたもので、右に「生身愛染明王拝見正月一日日蝕之時」、左に「自大日如来至日蓮廿三代嫡々相承建長六年廿五日日蓮授新仏」と記されている。

 一方「不動感見記」は縦31.3cm、横50cmで、中央に不動明王を描き、右に「生身不動明王拝見自十五日至十七日」、左に「自大日如来至日蓮廿三代嫡々相承建長六年六月廿五日日蓮授新仏」となっている。建長6年(1254)といえば、日蓮上人が開宗を宣言した翌年にあたり、聖人壮年期の希少な筆跡として注目される。これらを伝える妙本寺は、日蓮聖人の孫弟子にあたる日郷が康永年間(1342〜45)に開基した寺でもある。

日蓮は愛染不動感見記の中で、自分が大日如来から数えて23代目の血脈であると謳っている。
日蓮は、1248年高野山に潜入していた。26歳の時である。これは、開宗を宣言する以前の事である。
日蓮は、初期の頃から、法華経が如来の秘密すなわち密教である事を見抜いていた。






成就妙法蓮華経王瑜伽観智儀軌を典拠とする 法華曼荼羅 不空作