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周辺のご案内
武蔵ヶ辻から香林坊へとつづくメインストリートには地元の北國銀行本店をはじめ各金融機関や保険会社などが並び石川県随一のビジネス街を形成しています。。
めいてつエムザやスカイプラザといった巨大なショッピング施設もありますが、生活人口が極端に少ないという問題も抱えています。
市民の台所“近江町市場”は活気にあふれています。近年再開発ビル“近江町市場館”も完成してさらにスケールアップされ、多くの市民で賑っています。
尾崎神社・尾山神社、さらには隣接する金沢城公園や長町武家屋敷と数多くの観光名所には多くの人が訪れます。もちろん地区の住民にとっては最高の散策路として、その目を楽しませております。
金沢市の社会福祉事業の拠点でもある松ヶ枝福祉館は公民館に隣接しており、私たちも“福祉”という言葉が似合う地区づくりを目指しています。
石川県文教会館では1年を通して様々な催しが行われています。
金沢市文化ホールは各種催しが開かれるだけでなく、芸術的なたたずまいが街にしっかりと溶け込んでいます。


松ヶ枝の道しるべ・標柱を訪ねて
松ヶ枝地区は昔から、ほぼ金沢の真ん中に位置しております。そしてここには金沢市の文化歴史政策の一環として、旧町名の由来を記した標柱がいくつも建てられています。金沢市ホームページを参考にして、カメラ片手に歩いてみましたので、歴史の一端を知っていただくためにご紹介します。(ちなみに、標柱を探して、また周辺の様子を観察しながら歩き続けると、けっこうな運動量です。でも散策と云う言葉がピッタリですよ!)
標柱写真 旧町名 現在の町名 標柱に書かれている町名の由来 現在の町並み
石屋小路(イシヤショウジ) 武蔵町 もと安江町横町と呼ばれていた。藩政初期、藩の御用を勤める石工たちが住んでいたところから、この名がついた。
桶町(オケチョウ) 彦三町1・2丁目
尾張町2丁目
藩政の初め、藩の御用を勤める桶職人たちが屋敷地を与えられて住んでいたので桶屋町と呼ばれていたが、元禄のころからこの名になった。
栄町(サカエマチ) 武蔵町 藩政時代、人持組深美氏の邸宅があったので、深美小路と呼ばれた。明治の初め諸士の邸宅が商家となり、繁昌を願って栄町と称した。
十間町(ジッケンマチ) 十間町 寛永以前からの古い町名で、当初の戸数が十軒であったことから、この名がついたという。
高岡町(タカオカマチ) 香林坊2丁目
高岡町
武蔵町
越中高岡に隠居していた二代藩主前田利長が、家臣を高岡からかえし、この地に住まわせたため、この名がついた。
堤町(ツツミチョウ) 高岡町・尾山町の各一部 藩政期以前にできた寺内町の一つで、堀り上げた土の堤上に町地ができたことから、この名がついた。寛永十二年の火災を機に西内惣構堀の内からこの地に移された。
H21.11.1に一部が上堤町として町名復活
西町(ニシチョウ) 丸の内
尾山町
金沢御坊の西にできたのでこの名がついたといわれ、のち尾山城(金沢城)になってからできたという説もある。佐久間盛政が金沢御坊を攻め取って西町口を城の大手とした。
博労町(バクロマチ) 丸の内(一部)
大手町(一部)
尾張町1・2丁目(一部)
藩政期、馬を売買するかたわら、藩士の稽古用の賃馬を飼育する博労たちが住んだことからこの名がついた。馬労町とも書いた。
袋町(フクロマチ) 安江町
尾張町2丁目
藩政期の本町の一つで、この町筋が北国街道であった。道の両端が曲って袋のようであったところから、この名がついたという。
H19.3.1に町名復活
松原町(マツバラチョウ) 香林坊1丁目
尾山町
もと松原口門の前にあったことからこの名がついたという。藩政期には権現堂御門前町ともいい、のち御門前松原町といった。
南町(ミナミチョウ) 高岡町
香林坊1・2丁目
尾山町
佐久間盛政が城主のころ城の南にあったので、この名がついた。文禄元年この地に移転したが、寛永12年の移転説もある。
H20.11.1に町名復活
そのほかの標柱
標柱写真 刻文字 場所 由来 付近のようす
旧北国街道 袋町 古代には北陸道(ほくろくどう)と呼ばれ、日本海側の主要街道であった。藩政時代この町から尾張町へ出る道が主要道となっており、交通の要衝であった。
盲、ろう学校創立の地 尾山町文教会館前 明治41年1月、金沢市議会議員上森捨次郎は、この地に私立金沢もうあ学校を創立した。これが石川県立盲学校及びろう学校の母体となった。
官許・金澤青草辻近江町市場 近江町入口 この標柱の上部には【許 官】と左右逆配置で書かれてあり、いかにも歴史の古い市場にふさわしいです。