河崎 徹
第八回 「私の十二月三十一日

将来への展望も見えないまま今年(二〇〇一年)も過ぎようとしている。私の事ではない(私の場合、今年に限った事ではない)、日本という国の将来をエライ人達(?)が心配して宣うのである(本当は自分達の繁栄(地位や名誉)が続くかを心配している)。古今東西、歴史に名を残したような人達が晩年達する境地は「人間(個人)の価値は地位や名誉で決まるものではない。まして金でもない」と。ただしこういう立派な事をおっしゃる人は、だいたいが地位も名誉も手に入れ、それに必然的についてくるお金も手に入れた人が多い様だ。たぶんそれによって幸福が得られるはずと思っていたのに、そこに行きつくまでにいやな思いをしてきたからだろう。私の場合、地位も名誉も「いらない」とは言っていないのに手に入らず、まして福沢諭吉先生(お札)にはぜひお会いしたいと常日頃願っているのに、待ち人来たらず、というのが現状である。さらにこの状態で「 人間五〇年、下天の内を比ぶれば夢、マボロシのごとし…」というその年齢になってしまっている。地位も名誉も金もなく、「お前は何のために生きている(五〇年以上も生きてきた)」と言われそうだが、生きてきた(生きている)のだから仕方がない。開き直って言わせてもらうなら、人間も他の動物同様、地位も名誉もなくても生きていけるだけの食い物(エサ)があれば生きていけるし、現代の様に頭デッカチでなく、自然の中で頭と体のバランスを取って生きていけば、少々の不満はあるけれど、それ相応の人生が送れるだろうと思っている。そんな生き方でしか、見えてこないものもある。他人(ヒト)に迷惑をかけなければどんな生き方をしようが自由であろう(ただし私の場合、迷惑をかけていないと思っているだけ)。それに「人間五〇年…」とあの織田信長が死に直面した時、この敦盛の一節を語ったというように、波瀾万丈の人生を送った人でさえ、その一生は夢、マボロシのごとしという心境だったのだから、いかように生きようが人生とはそんなものかもしれない。
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文章の出だしから、いつもの口先だけの能書きとなってしまったが、今日二〇〇一年大晦日、久しぶりに早々に仕事場のそうじを終え、半分傾いた家「菱やぐらかわべ」(金沢城の中に柱が直角でない菱形の有名な建物があるが、この家の柱は以前直角であった)の室内の障子と襖の張り替えをする。実は今回、障子、襖を全部きれいに張り替えるつもりが、途中で面倒臭くなり、古い上からもう一枚かさねて張っただけとなる。二重になり、さらに丈夫になったので良しとする。そして、久しく使っていなかった「長火鉢」を出してきて、コタツといっしょに部屋の真ん中に置く。これで丁度三〇年ほど前、はじめて私がこの場所で仕事をはじめた時の姿が再現された様だ。まず長火鉢に炭を入れる、これで完璧で、後は三十一日の大晦日、誰れも来ないこの場所でゆっくり得意(?)の俳句でもつくれば最高である。人間、時には孤独もいいものである。
ただし、若い頃、北海道の山奥へ養殖の修行に行った時、十日間ほど誰れとも会わず犬とだけ暮した時は、さすがに誰れかと話したくなり(犬に話しかけていたが、その内私がそばへいくと逃げていった)、久しぶりに町へ行きパチンコ屋へ入ってすぐに隣りの人に話しかけ、気持ち悪がられてしまった。この時は、少々アブナイナという経験もした。人里離れた一軒家の一室で一人、長火鉢の火に手をかざしながら原稿を書く。昔の大作家と同じ(?)境地である(ちがっているのは原稿料が入ってこない点だけである)。
ところが、その長火鉢の炭がいよいよおこってきたと思った時、もくもくと煙を上げて、思わずせき込んでしまった。すごい煙である。炭なのか薪なのかわからない。部屋中、煙でもうもうとしだした。かなり以前に手に入れた安い炭で、インドネシアか、どこかの炭である。道理でエスニック(?)な香りで、しばらく窓を開け、別の炭に替えた。その炭は中国産らしきもので、今度は煙はそれほどではなかったが、ペンダのションベン(?)のようなイヤな臭いがした。これではしばらく創作意欲が湧きそうにない。開いた窓から外をながめると、フト、ここに仕事場をかまえた当時の大晦日とどこか違う気がする。
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あの当時の十二月三十一日は、私の記憶の中だけかもしれないが、特別の日であった。この窓から見える村の光景は(その日は朝から)それぞれの家(七〜八軒)で餅つきがあり、薪を燃やして餅米を「せいろ」でふかして、家からは煙が立ち昇っており、もうその時点で餅をつく音と、その回りに群がっている家族の話し声、日頃静かな村が活気づくやはり特別の日であったようだ。それと同時に、私もその光景を見ていっしょにやりたいと思いつつも、邪魔になるだろうと思い参加するのをやめた。その代わり、その当時、ここの村の子供達に勉強なるものを教えていた(何の役にも立たなかったが)よしみで、つきたての餅、鏡餅、雑煮用の餅と、あちこちから食べ切れないほどの餅が届く、という期待を持ち眺めていた。
それが、いつの頃からだろうか、三十一日が静かな村になり、私の餅もスーパーで買ってすます様になったのは。いつもは静かな村に正月を迎えると言う一点だけに集中して村が活気付く、そんな光景がなくなったのは、おそらくこの村だけの現象ではあるまい。「食い物の恨みはおそろしい」という点で文句を言っているのではない。村の人にはそれぞれの事情があり、昔のままであれ、とは私の勝手と言うものであろう。ただこの里山には、その当時と同じ様に四季それぞれの移ろいの中での行事(餅つき)となっていると思っていた。現在の三十一日、舗装された村の中の道路の雪をものともせず、四輪駆動車が疾走する。思わず、未だ仕事が残っているのだろうか、と勘ぐってしまう。その当時は三十一日になれば、ほとんどの店が早々に閉まり、年明け3日までは店は開かず、それ故にみんなが楽しみに待っていた。今は三十一日夜まで働き、一日からはもう仕事をしている。一体いつ休むのだろうか。一度村の人と当時の話(餅つき)をしたら「あの当時はよかった」という話がやはり返ってきた。どこにでもある時代の流れ(経済優先)という事だろう。失うものと得るもの(お金)を差し引いた時、得るものが多いと判断した時、時代の流れに乗るのは当然であろう。ただ一つ気になるのは、村の大人も子供も以前ほど活気がないように思うのは、私の偏見だろうか。ひょっとしたら、その得たものが「幸せになれるはず、今はしんどいけれど、もっとガンバレば幸せになれるだろう」という考えではなかろうか。今はもう亡くなられたが、今私が住んでいる所(養魚場)の大家のじいちゃんが、生前ヒマな時(定年後)にいつもやってきて、里山で自然と遊んだ頃のいろんな出来事を目をかがやかせて私に話してくれた。それは過ぎ去った日々は美しく心に残る、という事を差し引いても本当に楽しそうな様子で語っていた。そんな話を聞いていて「いいな」と思ったのは、それらの事が地位も名誉も金も関係ないという事である。春には山菜採り、夏は持ち帰れないほどのイワナ釣り、秋にはきのこ採り、冬は動物(ケモノ)の狩の話と、それらに必要なのは、ヒマ(時間)と丈夫な足腰(体力)、そして子供の頃から養われた経験である。これらは人類の歴史(進化)数百万年の間に装ったもの(適応)であり、それに従って行動しているのだから、楽しくない訳はない。今の日本(たかだか百年ほど前から)のように地位や名誉や金はあっても、ヒマ(時間)がない、便利になったが体力はない、おまけに子供の頃から試験に役立つ知識はあっても生きていくのに必要な経験がない(これらを称して有名な(?)生物学者は「試験淘汰」と言う)。今、私と同年代の村人とはそんな話はしない。するといえば、仕事の話で将来に対する期待と不安(こちらの方が多い)が主である。どんな人間にも(私にも)、将来に対する不安はあるだろう。あの当時の村人には今よりもっと不安はあっただろう。それ故に、今日一日(三十一日)ぐらいはそれを忘れて楽しむ、今日(三十一日)はそんな日ではなかっただろうか。そんな日があるから、昔の人は不安でも生活していけたのではなかろうか。それともそんな日がなくても平気で生きられるほど時代の流れに乗って「幸福」になったのかは、私にはわからない。「ヒトが餅をつこうが、つくまいが、お前の知った事か」と言われればそれまでの話である。やはり私だけが十二月三十一日という日を今でもそんな風に思っているのかもれしない。
そんなことを考えながら、暮れていく家の外を見ていると、やはり自然は淡々と歳月を刻んでいると思う。自分も歳をとったようだ。
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ようやくケムリも治まり、少々のニオイを我慢して、いつもの様に両手の指を折りつつ俳句を考える。ところが、日が落ちると同時に急に室内の温度が下がってきた。いつものストーブはつけずに、火鉢の炭火と火鉢の中の五徳に乗っているヤカンの蒸気では、部屋は温まらない。いや、温まらないより、若い頃のような炭火だけでは、今の私には寒過ぎる。思い出せば、あの当時もやはりこの部屋にはどこからともなく隙間風が吹き込み、寒いとは感じていたようだ。だが「冬は寒いもの」「夏は暑いもの」「部屋には隙間風は入るもの」と思っていた。そして、どうしても我慢できない時は、スコップを持って、必死になって雪かきをして体を温めていた。それは、自分の子供の頃、小学校の広い教室に、やはり一個の火鉢があり、寒い日には子供達が群がっていると、教師が入って来て「子供のくせに火鉢なんかにあたるな。体を動かせ」と言われ、「おしくらまんじゅう」や「馬飛び」などといった遊びをして体を温めていた。要するに、火鉢とは体を温めるものではなく、手足を炭火で温めるだけのものであった様だ。当時の大人達は、その寒い時にどうしていたのだろうか。軟弱になってしまったこの私でも、冬の晴れた朝、底冷えのするような寒さであるが、身の引き締まるような「凛と」した感覚は好きだ。また逆に、夏の暑い日に「暑さに負けるものか」という体の反応もいいものだ。だが今、現在の私は「冬暖かく、夏涼し」という快適(?)な生活に慣れてきたようだ。まあもう年だから仕方あるまい。隙間風が入り込む寒い部屋で「寒さこらえて編んでマス」という生活から、冬も夏も外から風が入らず、夏は冷房、冬暖房の現代生活。人間の体とはそんなに器用に環境変化に対処できるものだろうか(健康に本当にいいのだろうか)。もうヤセガマンする歳でもあるまい。と最新式の温風ヒータ(ストーブ)を点ける。すぐに部屋の空気が温まる。極楽々々。ただこのヒータは湯を沸かす事も、その上で餅を焼く事も出来ない。この家には実はストーブが5台もある。これらはすべてもらいものである。外(他人)より生活水準が1ランク低いせいか、不要になったものが最終的にはここに集まるようだ。それに私の生活もモットーは「形あるものは、いずれなくなる。故に壊れるまでは、こちらからは壊さない」ようにしている。決してものを大切にする性分ではない。でも、途中で壊して新しい物に替えたくはない。だからその他に、掃除機が3台、テレビ2台、使っていない洗濯機が2台…、だからストーブも私が生まれた頃のアラジン(英国製)のものから、現代の温風ヒータまで様々である。昔のストーブは構造が簡単で、私でも故障の原因がわかり修理も可能である。ストーブの上で湯を沸かす事も出来る。私の所のように、湯沸器のない家では、冬、ストーブの上で湯が沸くという事はとってもアリガタイ事である。さて今、部屋も温まり五徳の上に餅金を置き、スーパーで買ってきた餅ではあるが、昔のように黒砂糖を間にはさんでその餅を焼く。その横でヤカンが湯気を立てている。年が明ければ、毎年同じ事しかやっていないけれど何となく良い事があるように思える。この時代遅れの人間=私の十二月三十一日はこうして暮れていく。

追伸
十二月三十一日に続いてゆっくりとした正月元旦と、おもっていたが、私が仕事場に着くや否や、私を待っていたかのように、ドカドカと三人の人相の悪い男が両手にコンビニの袋を提げて入って来た。「ヒマを持て余しているだろう。マージャンしょう」「勝手に決めるな」せっかく、温故知新(古きをたずねて新らしきを知る)という新年の目論見は、元旦で頓挫してしまった。

     おもしろきかな、昨日消したる 初雪の朝
     誰れか見よ、今限りの 雪桜
     雪原に立つ、これより白きものはなし


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