■ごあいさつ 順教寺住職 細川公英 平素より順教寺護持に格別なるご尽力を賜りまして厚く御礼申し上げます。 そして、私の原点にある、松本梶丸先生(白山市・本誓寺前住職)からいただいたお言葉「聞法会を集まってこられる人の数ではなく、細川さんの学びの場として地道に続けて下さい。なんとしても親鸞という、すごい人をいただいているということは根元的な幸せです。」をかみしめるばかりであります。 また、順教寺聞法テーマ「ともに生きることを学ぶ」を聞法の具体的課題として、さまざまな角度から学ばせていただきたいと願うことであります。「人として生まれ、仏法に出遇わせてもらい、親鸞聖人はじめ、師・友に出遇わせていただいたこと」が何よりの幸せであります。みなさま、ともに仏法の教え、お念仏の教えを聞かせていただきましょう。仏法が中心となるような生活をいただいていこうではありませんか。 なにとぞよろしくお願い申し上げます。 |
■本 尊(ほんぞん) 阿弥陀如来(あみだにょらい) ■正依(しょうえ)の経典 『仏説無量寿経』(ぶっせつむりょうじゅきょう) 〈大経) 『仏説観無量寿経』(ぶっせつかんむりょうじゅきょう) 〈観経) 『仏説阿弥陀経』(ぶっせつあみだきょう) (小経) ■宗祖(しゅうそ) 親鸞聖人(しんらんしょうにん) ■宗祖の主著 『顕浄土真実教行証文類』(けんじょうどしんじつきょうぎょうしょうもんるい) (教行信証) |
■宗派名 真宗大谷派(しんしゅうおおたには) ■本 山 真宗本廟(しんしゅうほんびょう) 東本願寺 ■所在地 京都市 |
■釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ) |
■七高僧(しちこうそう) 親鸞が浄土真宗相承(そうじょう)の祖師と定めた七人の高僧。七祖・七高祖ともいう。インドの龍樹菩薩(りゅうじゅぼさつ)(二世紀ごろ)、天親(てんじん)(世親)(せしん)菩薩(四〜五世紀ごろ)、中国の曇鸞和尚(どんらんかしょう)(四七六〜五四二)、道綽禅師(どうしゃくぜんじ)(五六二〜六四五)、善導大師(ぜんどうだいし)(六一三〜八一)、日本の源信(げんしん)和尚(九四二〜一〇一七)、法然上人(ほうねんしょうにん)(一一三二〜一二一二)をいう。 ■龍樹(りゅうじゅ・インド)二〜三世紀 ■世親(せしん・インド)四〜五世紀頃 ■曇鸞(どんらん・中国)四七六〜五四二 ■道綽(どうしゃく・中国)五六二〜六四五 ■善導(ぜんどう・中国)六一三〜八一 ■源信(げんしん・日本)九四二〜一〇一七) ■法然(ほうねん・日本)一一三二〜一二一二) |
■阿弥陀如来(あみだにょらい) |
■仏説無量寿経(ぶっせつむりょうじゅきょう) 阿弥陀仏の四十八願が説かれ、日本の浄土教に大きな影響を与えた経典。釈尊がマガダ国の首都王舎城(おうしゃじょう)外の耆闍崛山(ぎしゃくせん)〈現在のラジギール付近〉において阿難(あなん)や弥勒(みろく)などを聴衆として説かれたものとされ、親鸞は無量寿経を出世本懐(しゅっせほんがい)の経典(釈尊がこの世に出現したのはこの経を説くため)とし、真宗では立教開宗の根本経典とする。詳しくは仏説無量寿経といい、大無量寿経・大経・大本・双巻経ともいう。中国曹魏の康僧鎧(こうそうがい)の訳とされる。上下二巻よりなり、上巻には阿弥陀仏の浄土の因果(浄土ができたわけ。法蔵菩薩が四十八願をたて、十劫の昔にそれを成就して阿弥陀仏となったこと)が示され、下巻には衆生往生の因果(どんな人でも往生ができるわけ。念仏による往生)が説かれる。親鸞の『教行信証』教巻には「それ真実の教をあらわさば、すなわち大無量寿経これなり」とあり、また「如来の本願を説くを経の宗致(中心思想)とす。すなわち仏の名号(南無阿弥陀仏)をもて経の体(主体)とするなり」とあり、念仏による救いを説く。観無量寿経・阿弥陀経とともに浄土三部経の一つ。 (『真宗小事典』法蔵館より) |
■『仏説観無量寿経』(ぶっせつかんむりょうじゅきょう) 通常『観無量寿経』といい、『観経』とも略称する。浄土三部経(『仏説無量寿経』・『仏説観無量寿経』・『仏説阿弥陀経』)のひとつ。 サンスクリット(古代インドの言語)で書かれたものは見当たらず、西域(さいいき)(タリム盆地周辺)出身の?良耶舎(きょうりょうやしゃ)が五世紀に訳したものが今日伝わっている。 仏に見(まみ)えたいという私たちの願いに応えるべく、この経はその方法(観(かん))を述べる形で展開している。阿闍世太子(あじゃせたいし)が父王を幽閉するところから物語りは始まり、苦悩する母韋提希(いだいけ)に対して浄土の世界や阿弥陀仏の姿を想い浮かべる観法(かんぽう)(定善)が説かれ、次に阿弥陀仏の浄土に往生するものの姿が九つの階位(かいい)に分けて説かれて(散善)、最後に「無量寿仏の名(みな)を持(たも)て」と念仏を勧めて結ばれている。とくにこの経の正宗分(しょうしゅうぶん)に説かれている「念仏衆生摂取不捨(ねんぶつしゅじょうせっしゅふしゃ)」という仏語は、よく阿弥陀仏の大悲の願心(がんしん)を表現している。 七高僧の一人、中国の善導大師(ぜんどうだいし)はこの経の真意を「衆生をして一向に専(もっぱ)ら阿弥陀の名(みな)を称せしむ」ことにあると『観経疏(かんぎょうしょ)』に述べられている。さらに親鸞聖人は「善導独明仏正意(ぜんどうどくみょうぶっしょうい)」と「正信偈」にそのことを讃嘆されている。 (『現代の聖典』東本願寺より) |
■『仏説阿弥陀経』(ぶっせつあみだきょう) 浄土の荘厳(しょうごん)を示し、六方の諸仏がこれを証明し、称名念仏(しょうみょうねんぶつ)を勧めるもので、短編のため親しく読誦されることが多い。 (『真宗小事典』法蔵館より) |
■親鸞(しんらん)1173〜1262 浄土真宗の開祖。別名綽空(しゃっくう)、善信ともいわれる。号は愚禿(ぐとく)。日野有範(ひのありのり)の子で幼名は松若丸。九歳のとき青蓮院慈円(しょうれんいんじえん)について得度。建仁元年(1201)六角堂に参籠(さんろう)し、九十五日の暁に聖徳太子の示現(じげん)(現われ示すこと)により、吉水(よしみず)に法然(1133〜1212)を訪ね、専修念仏(せんじゅねんぶつ)の門に帰した。建永元年(1206)興福寺の告訴による念仏弾圧により、翌承元元年(1207)法然や同輩数名とともに罰せられ、藤井善信という俗名を与えられて越後(新潟県)に流された(承元の法難)。その後、愚禿と自称し、非僧非俗(ひそうひぞく)(僧侶でも俗人でもない)の立場に立って、この地の豪族三善為教の息女とも推定される恵信尼(えしんに)と結婚。建賢元年(1211)赦免され、建保二年(1214)家族とともに常陸(茨城県)に移住し、関東各地の民衆に念仏をすすめた。その間に浄土真宗の立教開宗の根本聖典となる『顕浄土真実教行証文類(教行信証)』を撰述し、六十二、三歳ごろ帰洛してからも加筆推敲した。弘長二年(1262)十一月二十八日、弟尋有の坊舎で、末娘覚信尼(かくしんに)らにみとられて生涯を終えた。『教行信証』のほかに著書には『浄土文類聚鈔(じょうどもんるいじゅしょう)』『愚禿鈔』『浄土和讃』『高僧和讃』『正像末和讃』など多数がある。 (『真宗小事典』法蔵館より) ※こちらも参考にどうぞ。 |
■釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ) 世尊(せそん)・釈尊ともいう。釈迦はシャーキャの音写で、種族名。牟尼はムニの音写で、仙人・智者・聖者(せいじゃ)などの意味。釈迦牟尼とは「釈迦族出身の聖者」である。名はゴータマ・シッダルタといい、BC六〜五世紀ごろ、ヒマラヤ山麓のルンビニーに、浄飯王(じょうぼんおう)と麻耶夫人(まやぶにん)のあいだに王子として生まれる。二十九歳で出家。三十五歳で仏陀(ぶつだ)(覚者=真理をさとった者)となる。八十歳で入滅。入滅後、その教えは仏教として広まり、それとともに、釈尊は歴史上実在した人物、仏教の開祖というだけでなく永遠の真理そのものを現した仏として尊崇されるにいたった。親鸞は、無量寿経を説いて阿弥陀仏による救済を知らせることが、釈尊がこの世に出現した本来の目的(出世本懐(しゅっせほんがい)であるとし、無量寿経が仏教の根本的な教え(真実の教)であるとした。 (『真宗小事典』法蔵館より) |
はじめに