どんどん破壊せねばならない  〜 日本画家 速水御舟 〜

「炎舞」山種美術館・蔵

初公開のノート

御舟の心境の変化を伝える、耳が不自由だった弟子(西島廣造)との筆談ノートが見つかった。御舟の絵画に対する姿勢が書いてある。真の美を表現するには、心で描くのが大切だと考えるようになった御舟は、自らの精神をも鍛えようとした。

御舟は武蔵野にある禅寺「平林寺(埼玉・新座市)」の門をたたいた。座禅を組み、日中は堂内の掃除に励む毎日。修行僧と同じ生活を9ヶ月間おくり、心の目で物を見るという禅の教えに近づこうとした。

禅との融合−重文「炎舞」1925年−

大正14年夏、避暑に訪れた軽井沢で、焚き火とそれに群がる蛾の美しさに御舟は心を奪われた。毎日、家族のものに焚き火を起こさせ、その前で写生を毎日繰り返し行い、炎を見つめ続けた。

変幻する炎の神秘が深みのある朱で描かれている。闇と炎の境には金泥を用いて微妙な色調の変化が加えられている。我が身を焦がしながら舞う蛾の群れは、怪しい輝きを放っている。光と闇、生と死、「炎舞」は仏教的な要素が強く感じられる作品。

炎はいかにも写実的なものにみえるが、実は大変有名な京都の青蓮院「不動明王二童子像(青不動)」の火炎光背を参考にしたものではないかと考えられている。蛾は同心円を描きながら炎に吸い込まれていく。焼かれるとわかっていても炎に向かっていく蛾の姿は、あたかも人間の煩悩を象徴しているかのよう。

御舟は弟子に『絵を作る前に人間を作れ、人間のできていない者に良い絵は描けるはずはない』といったという。「京の舞妓」から5年後、「炎舞」は御舟が31歳の若さで到達した境地を表している。

『一生型を壊しつつ、終わるかもしれない』この言葉を残した半年後、速水御舟は41年の生涯を閉じた。

  • 1894(明治27) 8月2日、蒔田良三郎、いとの次男として東京市浅草に生まれる。本名は栄一
  • 1908(41) 日本画家、松本楓湖(ふうこ)の安雅堂画塾に入門。翌年に師から「禾湖(かこ)」の号を受ける
  • 1911(44) 第11回巽画会に「室寿の讌(むろはぎのえん)」を出品、一等褒状を受け宮内省買上に。紅児会に入会
  • 1912(45) 号を自ら「浩然(こうねん)」と改める
  • 1914(大正3) 成人を機に養子となっていた速水姓を正式に名のると共に、号を「御舟」と改号
  • 1915(4) 安画堂画塾の兄弟子今村紫紅を中心とし目黒の夕日が岡で赤曜会展を開催する
  • 1917(6) 第4回院展に「洛外六題」出品、横山大観らの絶賛を受け、最年少で日本美術院の同人に推挙される
  • 1919(8) 東京市浅草にて交通事故に遭い、左足の踝から先を市電に轢かれるも九死に一生を得る
  • 1920(9) 第7回院展に「京の舞妓」、他を出品、そのあまりな細密描写が賛否両論をよぶ
  • 1921(10) 吉田弥一郎の四女、弥(いよ)と結婚
  • 1926(15) 第1回個展を吉田幸三郎庭内で開催して、「炎舞」、その他を出品する
  • 1929(昭和4) 16回院展に「名樹散椿」出品
  • 1930(5) ローマで開催の日本美術展のため渡欧、その後、ヨーロッパ各地及びエジプトを巡遊
  • 1934(9) 院試作展に「白日夢」出品、「花と果実」を制作
  • 1935(10) 3月20日、腸チフスにて逝去、40歳
  • 1977(52) 「炎舞」と「名樹散椿」が国の重要文化財に指定
to Favorite