●五時八教説、四十余年未顕真実は、
法華経の本編に書かれています。
五時八教説とは、
お経に出てくる釈尊の年齢(説法した歳)によって、分類したものである。
西洋の歴史学が入ってきて以降。天台智の五時教判が、経典成立史とスリ替えられてしまった。
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見宝塔品
第十一
誰能於此娑婆國土。廣説妙法華經。今正是時。如來不久當入涅槃。
佛欲以此妙法華經付囑有在。爾時世尊。欲重宣此義。而説偈言 「この娑婆世界で、広く法華経を説くものは誰か。今がまさしくその時である。わたしは間もなく入滅する。 わたしはこの法華経を誰かに委ねたいと思っている」釈尊はこのように語ると、重ねてこの意味を伝えようとして、詩句をもって唱えた。 |
その詩句のなかで釈尊は熱い調子で語るのである。「わたしが入滅ののち
、よくこの経を信じ伝え弘めるものは誰か、今、仏前において誓いの言葉を述べよ。ここに集まった諸仏はことごとくその大願を聞くだろう。諸々の仏の子らよ、明らかに目覚めよ。宜しく大願を起こすべきである。 たとえガンジス川の砂の数ほどの経をすべて説いたとしても、難事とは言えない。たとえ須弥山を取って投げたとしても、難事とは言えない。たとえ足の指で三千大千世界を動かし蹴飛ばしたとしても、難事とは言えない。たとえ世界の頂点に至って衆生に経を説いたとしても、難事とは言えない。 仏の入滅ののちの悪世のなかで、この経を説くことこそ難しいのである。たとえ虚空を手にとって遊行するとしても、難事とは言えない。わたしの入滅ののちこの経を自ら書くこと、また人に書写させることこそ難しいのである。たとえ大地を足の爪先にのせて梵天に駆け上がったとしても、難事とは言えない。仏の入滅ののちの悪世のなかで、ひと時であれ、この経を読むことこそ難しいのである。たとえ世界を焼け尽くす劫火のなかで乾いた草を背負い歩くとしても、難事とは言えない。わたしの入滅ののちに、一人のためにでもこの経を説くことこそ難しいのである。たとえ八万四千の法門を説いて六神通を得させたとしても難事とは言えない。仏の入滅ののちにこの経を聞いて信じ、その趣意を問うことが難しいのである。たとえガンジス川の砂の数ほどの衆生をして阿羅漢に至らしめたとしても難事とは言えない。わたしの入滅ののちにこの経を保ち尊ぶことこそ難しいのである。わたしは仏道の初めから今に至るまで、諸々の経を説いてきたが、そのなかにおいて法華経こそが第一の経である。 諸々の 善男子 よ、誰かよくこの経を信じ読み誦し弘めるのか、今、仏前において大願を起こすものは誰か。仏の入滅ののちによくその趣意を解するものこそ、仏の子である」 |
世尊。如來爲太子時。出於釋宮。去伽耶城不遠。坐於道場。得成阿耨多羅三藐三菩提。從是已來。始過四十餘年 。世尊。云何於此少時。大作佛事。以佛勢力。以佛功徳。教化如是無量大菩薩衆。當成阿耨多羅三藐三菩提。世尊。此大菩薩衆。假使有人。於千萬億劫。數不能盡。不得其邊。斯等久遠已來於無量無邊諸佛所殖諸善根。成就菩薩道。常修梵行。世尊。如此之事。世所難信。譬如有人。色美髮黒年二十五。指百歳人言是我子。其百歳人。亦指年少言是我父。生育我等。是事難信。佛亦如是。得道已來其實未久。如此大衆諸菩薩等。已於無量千萬億劫。爲佛道故。勤行精進。善入出住無量百千萬億三昧。得大神通。久修梵行。善能次第集諸善法。巧於問答。人中之寶。一切世間甚爲希有。今日世尊。方云得佛道時初令發心。教化示導令向阿耨多羅三藐三菩提。世尊。得佛未久。乃能作此大功徳事。我等雖復信佛隨宜所説。佛所出言。未曾虚妄。佛所知者皆悉通達。然諸新發意菩薩。於佛滅後。若聞是語。或不信受。而起破法罪業因縁。唯然世尊。願爲解説除我等疑。及未來世諸善男子。聞此事已亦不生疑。爾時彌勒菩薩。欲重宣此義。而説偈言 |
佛昔從釋種 出家近伽耶 坐於菩提樹 爾來尚未久 此諸佛子等 其數不可量 久已行佛道 住神通智力 善學菩薩道 不染世間法 如蓮華在水 從地而踊出 皆起恭敬心 住於世尊前 是事難思議 云何而可信 佛得道甚近 所成就甚多 願爲除衆疑 如實分別説 譬如少壯人 年始二十五 示人百歳子 髮白而面皺 是等我所生 子亦説是父 父少而子老 擧世所不信 世尊亦如是 得道來甚近 是諸菩薩等 志固無怯弱 從無量劫來 而行菩薩道 巧於難問答 其心無所畏 忍辱心決定 端正有威徳 十方佛所讃 善能分別説 不樂在人衆 常好在禪定 爲求佛道故 於下空中住 我等從佛聞 於此事無疑 願佛爲未來 演説令開解 若有於此經 生疑不信者 即當墮惡道 願今爲解説 是無量菩薩 云何於少時 教化令發心 而住不退地 |
こんな狭い所にあれだけの群衆が集まるとは信じられない。
これだけを取ってみても、法華経がフィクションである事がわかる。
しかしながら法華経は、釈迦の直説なのである。