出典:法善寺 上野 _ 日本 _ Houzenji 前記(省略)まずこの『観無量寿経』ですが、日本に伝わってきたものは?良耶舎(きょうりょうやしゃ)という方が訳されたものになります。サンスクリット語の原典があると言われていますが、今日に至るまで未だに見つかっていません。一説によれば原典は存在せず、中国で作られたお経とも言われています。 |
wikipediaから・・・勢至菩薩 概要 阿弥陀三尊の右脇侍。『観無量寿経』の中には「知恵を持って遍く一切を照らし、三途を離れしめて、無上の力を得せしむ故、大勢至と名づく」とあり、火途・血途・刀途の三途、迷いと戦いの世界の苦しみから知恵を持って救い、その亡者を仏道に引き入れ、正しい行いをさせる菩薩とされる。 |
wikipediaから・・・観無量寿経 『観無量寿経』(かんむりょうじゅきょう)は、大乗仏教の経典の一つ。別名『観無量寿仏経』、『無量寿仏観経』、『無量寿観経』ともいい、『観経』と略称される。 サンスクリット原典は現存しておらず、その存在を裏付けるチベット語訳もない。現存しているのは南朝宋の畺良耶舎による漢訳のみで大正蔵に収録されている。そしてその内容的問題も絡んで『観経』の撰述地について、中国説・インド説・中央アジア説が発表されている。しかし漢訳しか現存しない『観経』について,内容等から撰述地を確定し実証するのは,現状では不可能であろうともいわれている。 曇摩蜜多の観無量寿経 『観無量寿経』1巻 劉宋の曇摩蜜多訳。残存せず認められていない。 『開元釈教録』(編纂:智昇)に収録され存在したとの説もあるが、早く散逸した訳経録からの記載であり、『高僧伝』の曇摩蜜多の条にも訳出経典として挙げられていない。よって訳者の混同により二訳ありとの過失が生じたものと考えられ、畺良耶舎訳のみが存在すると考えるのが通説である。 その他に、後漢訳と東晋訳が存在したとの記録があるが、いずれも認められていない。 ウイグル語訳
ウイグル語訳は、残簡が大谷探検隊により敦煌にて発見されているが、漢訳経典からの翻訳とみられている。
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第五十九話 大勢至菩薩がなぜ『法華経』に
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植木のこじつけ論法炸裂!!!
またしても、仏教研究家:植木雅俊の虚言、こじつけ論である。
植木は常不軽菩薩品がやたらお気に入りだ。
観無量寿経の中には、
「知恵を持って遍く一切を照らし、三途を離れしめて、無上の力を得せしむ故、大勢至と名づく」とある。
これをもってして植木は、法華経の文中において、
得大勢菩薩(大勢至菩薩)に釈尊が語り掛けるのは、神通力の否定なのだと主張する。
しかしながら法華経は徹底的なフィクションで有名なお経である。
法華経の教主釈尊の空中浮遊や、分身化身、地中からの仏塔の出現そのた神通力の連発である。
法華経が神通力を否定しなければならない理由がどこにあるのか?
そして常不軽菩薩品においても例外なく分身化身思想が登場している。
観無量寿経は中国でつくられた偽経でありサンスクリット原典が無い。
法華経がどのようにして観無量寿経の否定が出来るのか?
さらに無量寿経や観無量寿経に観音菩薩が登場するということは法華経より後代に成立した事を意味している。
このような素人でもわかる論文がまかり通っている事自体が不可思議である。
間違いは赤字で示す。
↓ここから↓
『法華経』の第十九章 常不軽菩薩品(第二十)は、次の言葉で始まる。
その時、世尊は大いなる勢力をかち得たもの=i得大勢)という菩薩に語りかけられた。
(植木訳『サンスクリット版誤訳 法華経 現代語訳』、三〇八頁)
そこで、釈尊は、「大いなる力をかち得たもの≠諱vと呼びかけて、数えることのできない無量の劫もの遥かな過去に恐ろしく響く音声(おんじょう)の王=i威音王)という名前の如来が無数に出現したことを明かす。(分身化身思想)
その上で、
大いなる勢力をかち得たもの=i得大勢)よ、〔中略〕その世尊の入滅後、正しい教えが衰亡し、また正しい教えに似た教えも衰亡しつつあり、その教えが増上慢の男性出家者たちによって攻撃されている時に、サダーパリブータ(常不軽菩薩)という名前の男性出家者の菩薩がいた。
(同、三一〇頁)
と語り、鳩摩羅什(三四四〜四一三年)によって「常不軽」と漢訳されたサダーパリブータ(常不軽菩薩)という名前の菩薩について語り始める。
釈尊は、このサダーパリブータ(常不軽菩薩)について語るのに、原文では「大いなる勢力をかち得たもの≠諱vと十八回も呼びかけている。けれども、その菩薩は返事も何もしていない。存在感のない菩薩である。それだけに、『法華経』を重視していた天台大師智も、最澄も、日蓮も、この菩薩に注目することはなかったようだ。
この菩薩の名前は、サンスクリット語で「マハー・スターマ・プラ―プタ」(maha-sthama-prapta)
となっている。「マハー」が「偉大な」、「スターマ」が「勢力」、「プラ―プタ」が「「得た」「至った」という意味であり、鳩摩羅什による「得大勢」という漢訳に対して、私は「大いなる勢力をかち得たもの」と現代語訳した。ところが、『梵和大辞典』を調べると、「大勢至」とも漢訳されている。それは、?良耶舎(きょうりょうやしゃ)(三八二〜四四三年)訳の『観無量寿経』偽経:サンスクリット語は見つかっていない。に出てくる。この菩薩は、阿弥陀三尊像に向かって左側にひかえる脇(わき)侍(じ)である。
法華経からパクった。
「得大勢」と「大勢至」を見比べて、両者が同一人物だったと気づく人はまれであろう。わたしはサンスクリット語から翻訳したから気付くことができた。では、どうして釈尊は、常不軽菩薩の話を阿弥陀如来の脇侍である大勢至菩薩を聞き役にして語って聞かせたのであろうか。ここに重大なメッセージが込められているような気がする。それを知るには、大勢至菩薩がどのような働きを持つ菩薩とされているかを知ることが一番であろう。それは、「智慧の光で一切を照らし、衆生が地獄界や餓鬼界に堕ちるのを防ぐ」とされている。これがヒントになるであろう。
観無量寿経は法華経より後に中国でつくられた経典であり。勢至菩薩は法華経が開発した菩薩です。
サダーパリブータ菩薩常不軽菩薩は、あえて人間関係に関わって、言葉によって語りかけ、誤解されても感情的にならず、自らの主張を貫き、誤解を理解に変えて、ともどもに覚りに到るという在り方を貫いた菩薩である。
拡大解釈。
人間関係を通して教化することは、原始仏教以来、変わってはならない実践形態であろう。原始仏典の『ダンマ・パダ』には、次のように記されている。
まず自分を正しくととのえ、次いで他人を教えよ。そうすれば賢明な人は、煩わされて悩むことがないであろう。他人に教えるとおりに、自分でも行え――。自分をよくととのえた人こそ、他人をととのえるであろう。自己はじつに制しがたい。(中村元訳)
引用です。
中村先生は、この一節に基づいて、次のように語っておられた。
初期の仏教においても他人を救うことを教えている。しかし修行者が自己の神秘的な力によって他人を救うのではない。そうではなくて他人をして正しい道に入らしめた後に、その他人が他人自身の力によって他人自身を救うのである。〔中略〕修行を完成してみずから真実の認識を得ている人が、他人をして心理を理解させ体得させるのである。ゆえに他人を救うためには救おうとする人自身が修行を完成して、まず自身を救ったものであらねばならぬ。
引用です。
(中村元著『原始仏教の思想T』、五五三頁)
以上のことからすれば、「光で照らすだけで人を救えるのか?」。人は、人間対人間の対話によってしか救うことはできない――ということを、強引に話を持っていく。釈尊は、サダーパリブータ(常不軽菩薩)の振舞を通して大勢至菩薩に語って聞かせているように見える。
ように見える(笑)
『法華経』において第五章薬草喩品(第五)では、人間を相手に声(言葉)によって、すなわち対話を通して人々を救済することが、次のように強調されている。
大きな雲が湧き起こるように、如来も世間に出現して、世間のすべての人々を声をもって覚らせるのである。大きな雲が、三千大千世界の全てを覆いつくすように、如来は、世間の人々の面前で、〔中略〕言葉を発して、声を聞かせるのである。
別に珍しい事は書かれていない。
(植木訳『サンスクリット版翻訳 法華経 現代語訳』、九七頁)
大十章法師品(第十)には、教えの勝れた功力も仏陀の国土への勝れた誕生も自発的に放棄して、衆生の幸福と、憐れみのために、この法門を顕示する動機で」生まれてきて、「如来のこの法門を説き示したり、ひそかに隠れてでも、誰か一人のためだけでさえも説き示したり、あるいは語ったりする人」(同、一八〇頁)のことが如来のなすべきことをなす人であり、如来の使者に称賛されている。ここも、人間の中で言葉によって語って教化することが重視されている。
普通の内容。
原始仏教においても、『法華経』においても強調されていたように、神がかり的な救済を否定し、人間関係を通して、対話によって教化するのが仏教本来の思想であることを再確認する意図が、大勢至菩薩を聞き役とする場面設定自体に込められていたのだ。
植木の思い込み。
【今を生きるための仏教100話】植木雅俊著/平凡社新書