架空の庭 [2003.01.19]  
日記 セレクション

洋的自我

十牛図を初めて見た。
絵が10個じゃないのもあるらしいけど、とりあえず、ここでは、十牛図といっておく。

十牛図、とは、禅において、悟りの境地へ至る段階の諸相を表した10枚(あるいは8枚)の絵である。その絵の中に、1枚、ただ円を描いたものがある。この円、とても日本的(東洋的)だと思う。いや、仏教的、というのだろうか。
この円は、最初からすべてがある、という思想なのである。

西欧にも、十牛図に相当するようなものがあるらしい。錬金術の図らしいのだが。その図もやはり、10段階に分かれている絵で、ものの変容の過程が描かれているものである。

その1枚目の絵に、西洋と東洋の違いが出ていると思う。錬金術の図では、最初の1枚目に、男女の姿が表されている。
日本だと最初の1枚目に描かれているのは、男のひとが一人なのである。
錬金術の図だと、モノが成る様子が、1対の男女の結ばれる様にたとえられるのだろうか。男女の「結婚」というイメージだ。しかし十牛図では、一人の男が、牛と出会い、次には「円」のイメージ」になる。十牛図では、そしてまた一人の男の図に戻っている。

西欧だと、男性の意識されていない部分、男性というより、意識の意識していない部分、神秘の部分を、女性の姿で表すのだ。では、日本というか東洋だと、意識されていない部分すなわち無意識というかそういう部分は、牛の姿なのだろうか。それとも、「自己」というか「自我」というものが、そもそも西欧のとは違うから、無意識の部分もまた違うんだろうか。
考えて見れば、日本人には、確固たるアイデンティティとか自我というのはないに違いない。「個」はなくて、全て、他との関連性において、自己を認識しているのではないのか。確固たる「個」、一人きりでもどこまでも「個」というイメージは、東洋にはない。あるのは、他者との関係の中での意識だ。それが円のイメージで表されていることか。
一方、西洋では、主に神との関係性で、自己が確立されるのではないか。(西洋人でないので断言できないが)そして、個と神の関係において、神の側に属するイメージは、女の姿を取っていることが多いのではないか。
西欧の自我と無意識のイメージは、英雄譚にあふれている。
そういえば、アーサー王物語なんて、英雄以外のうさんくさい無意識的な部分を示すキャラクタっていうのは、ほとんど女性である。唯一の妖しい男性キャラは、マーリンのみだ。あとは、異界の人間というのは、全て女性である。マーリンは人間ぽいから、異界の人間というほどでもないが、でも一般的な人間とはまた違うだろう。

ところで、マーリンというのは面白い存在である。
わたしは、マーリンとは、アーサー王の影的な部分をあらわしてるんじゃないかと思うのだ。この「影」というのは、「無意識」のことだと、わたしは考えているわけである。マーリンは、アーサーのためになることもするけれど、困ったこともしたりする。それは、きっと、アーサーの補完的なイメージなんじゃないか、と考えられるのである。
アーサー自身、神秘的な存在なのであるけれど、「王者」のイメージがやはり強くて、その「王」のイメージを補完しているのが、マーリンの存在なのではないかと思うのだ。
アーサー王に出てくる人物や事象や事物っていうのは、みんな、とても象徴的だと思う。アーサー王は、心理学とむすびつけられやすい象徴に満ちていると思う。
ただし、心理学でアーサー王伝説の豊富なイメージに説明がつくといっても、アーサー王の真実なんて、それを読むひとの数だけあるから、わたしにとっての「アーサー王の真実」ってことになるのだけど。

日本の自己というか自我というか「意識」っていうのは、西洋のとは違う。どっちがいい、ってことは言えないとは思うけど。

[1997.07.22 Yoshimoto]
 
[BACK]