架空の庭 [2003.01.19]  
日記 セレクション

書について

ショウペンハウエルの『読書について』をお読みになった方ならば思い出されるだろう。かの文章の中には、こんな一文がある。

「ほとんどまる一日を多読に費やす勤勉な人間は、しだいに自分でものを考える力を失って行く。」

実は、自分の頭でものを考えられる人ならば、他人の書いたものなど、全然読む必要がないのである。読書をするということは、人のつけた道を辿って歩くようなものなのだ。それは、自分で道を切り開くのをやめているということなのである。自分の思考活動を止めて、人に考えてもらっているということなのである。
本、というか、誰かの書いた文章は、それを書いた人物の脳の遺跡、残骸みたいなものなのである。

などと、とあるきっかけから考えていたのだけど、では、今後1年間一切読書をしない、ということが、はたしてわたしにできるだろうか。ちょっとそんな可能性について考えてみた。でも、多分、全然だめだと思う。本を読まない生活なんて、わたしにはちょっと考えられない。
とかいっても、今、毎日本を読んでいるかといえば、そんなことはないのだけど。活字中毒者、と言われるような人人に比べれば微々たるもの。
それに、仕事から帰って来て、家事を済ませると、もうテレホーダイに入ろうかという時間になってしまう毎日では、そんなに本を読む時間はとれないのだ。
でも、土日には何か読むし、読まないにしても何故か毎日文庫本をかばんに入れているのだ。本は、わたしの生活から切り離せない存在なのである。

ところで、今のわたしには、もうひとつ読むのを楽しみにしているものがある。それは、ウェブ上に存在している文章だ。その形は、書評でも日記でもエッセイでもなんでもいい。とにかく、自分じゃない人(しかも面白い人のものならなおさら)の書いた文章を読むのが、今のわたしの重要な楽しみのひとつなのである。
それは、もしかしたら、読書にも匹敵する楽しさだ。しかもただなので、読み放題なのである。

こう言える背景としては、最近のわたしの読書の傾向がある。最近読んだ本は、フィクションとノンフィクションが半々くらいの割合いだ。いや、最近は、小説なんてあんまり読んでいないかもしれない。わたしの読むものは、ほとんどが哲学的な文章だとか、エッセイだとか、そういうものなのだ。ノンフィクションというと、語弊があるかもしれないのだが、要するに、誰かの考えを書き連ねた内容のものが好きなのである。養老孟司氏の本とか、池田晶子さんの本とか。内田春菊のものとか。考えようによっちゃ、森博嗣の小説も、そういうのに満ちているような気がするし。

思うに、ウェブの文章を読んで楽しんでいる部分と、読書をして楽しんでいる部分は、割と近い部分なのではないかと思うのである。両者の行為を行う影には、同じ欲求が働いているのである。

それは、他人の脳を通して、世界を見たいという気持ち、人の見た世界を知りたいという気持ち、である。

わたしには、結局のところ、「わたし」の知りうる範囲の世界しか認識できないんである。それを一人きりで「世界」を拡大して行く事も必要だ、でもそれだけじゃなくて、他の人の脳を一度通った世界というものも、とても興味深いものだと思うのである。一生わたしきりじゃ辿り着けない境地までも他人の脳から見た世界を知る事で到達できるかもしれない、いや到達はできないけれど、そういう境地があることを窺い知る事ができるかもしれない。そう思うのである。
でも、そうすることの究極の目的は、わたしにとっては、「わたしとは何か」を明かにすることなのだけどね。

[1999.06.15 Yoshimoto]
 
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