架空の庭 [2003.01.19]
まえまえからこの日記の場で言ってる通り、結婚や世間というものは、「共有された幻想」である。
それなのに、何故か、誰もが結婚を目標にしている。
「いいとし」になった男女は、結婚するべきだという考えが、誰にも疑われないまま、通用している。
結婚は人生のオプションみたいなものだ。あってもいいけど、ないことも当然ある。機能満載の人生もありだし、ひとつの機能を追求したストイックな人生だってある。
要は、どの人生でも自由に選べるということが肝心だ。こっちの選択肢を選んだら、冷たい目や白い目で見られるなんていうことは、ありうべからざることだ。
大体、結婚なんて、実はただの契約なのに。そんなことが、その個人を判断する基準になんてならない。
だのに、「いいとし」をして独身である男女に対する世間の評価のなんと厳しいことか。でも、まだ研究や仕事に没頭して婚期を逸した、という評価を得られる優秀なひとはいい。特に理由もなく、独身である人間に対する世間の目は、多分つめたい。
でも、上記のようなことをわたしが独身である間に言っていたら、もっと説得力があったらしい。わたしは結婚していて、娘もいて、世間の常識、という不気味な基準から見れば、実に平均的な普通の人生だ。この状況があるばかりに、わたしがどんなに結婚なんて家庭なんて、といったって、
「あなたは、結婚してるから」
の一言で黙らざるを得ないのだ。
しかも、わたしは、結婚式までぎょうぎょうしく行ってしまっているのだ。(全く、口惜しいことだ!)今なら絶対の絶対、結婚式なんてしないのにっ!!!
主張と現状が一致していない場合は、何を言っても聞いてもらえません。それでも、あえていいます。結婚なんてどうでもいいんだよ。大事な家族がいて、その愛する家族と仲良く、お互いの個を尊重しあい、暮らしていければ、婚姻届や結婚式や婚期、なんてものはどうでもいいものなのである。
という精神をもっと貫くべきだったのかもしれないなあ。そのほうが世間に対して、わたしの反抗をもっと理解してもらえただろうに。世間って全く誰なんだ?誰でもないのだよ。誰でもないけど、みんなが共有したがっているものだ。みんなをしばるものだ。
わたしは、何故だか仲間内では、結婚したのは早いほうだった。最近になって、親しい友人たちは結婚しはじめたのだけど。
わたしは、結婚なんて絶対しないと思っていた。仲間のほうでも、わたしと結婚を結び付けて考えていなかったに違いない。結婚自体は、悪いことではない。だって、ただの契約にすぎないから。書類を書いてはんこ押すだけで、本人にとって違いはほとんどない。名前が変わるけど、今時、仕事上は同じ姓でいることもできる。
でも、世間は、わたしを同じ目で見ない。わたしは、社会的には、「奥さん」になるのだ。そうなると、かなり扱いが違う。最初の頃はかなり戸惑った。わたしは、わたしなのに、世間から見ると、わたしは「奥さん」であって、「よしもとなにがし」ではないのだ。
わたしが、わたしであることはあまり認めてもらえなくなるのだ。というか、自分の中では、わたしはわたしでしかありえないけど、社会的な扱いが違うのだ。
例えば、結婚指輪。結婚指輪は、してもしなくてもどうでもいいものだ。男性ではしてないひとのほうが多いかもしれない。でも、女性で結婚してる場合、結婚指輪していなかったら、何故していないのか、尋ねられるほうが多いかもしれない。
長長と愚痴ってしまった。結局何がいいたいのか、長すぎて焦点がぼけてしまった。つまりは、結婚しようが子供を産もうが、「わたし」が「わたし」であることに変わりはないので、社会的な枠、今ならさしずめ、「奥さん」「お母さん」ですかね、その社会的な枠組みにあてはめた形を通してわたしを見ないでください。
わたしをただの人間として見てくださいってことです。
[1997.12.09 Yoshimoto]
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