架空の庭 [2003.01.19]  
日記 セレクション

「怖い」という

実は、数ヶ月前から、わたしのアタマのどこかに「こわい」という感情についての考えがうずまいていたのだ。それは、ゆうきがお葬式で骨を異様に怖がったから、というのが直接の原因。それに自分が他のことはあんまり怖くないのに、バイオハザードのゾンビは怖いというのも、なんだか納得いかぬまま、であったのだ。
でも、その自分の中の「怖い」という感情に対する考えを、まだはっきりとした形にすることはできていなかった。それは、ただ、どろどろと液体状のまま、存在しているだけだったのである。

「怖い」という感情は、この世のものでないもの、理解できないもの、つまり「わたし」の世界に存在しないもの、に対して湧き起こる感情なのだろう。
わたしは、映画とか見ても小説を読んでも、「怖さ」を感じることはほとんどない。と自分では思っているのだ。といっても、ホラー小説といったら、スティーブン・キングかバーカーくらいしか読んだことないんだけど。これらを読んでも、全然怖くなかった。和モノでいえば、小林泰三を読んだが、これも全然怖くはなかった。ところで、怖くない=面白くないということではないので注意してください。

でも、そんなわたしでもすごく怖く感じるものがある。それは、ゾンビだ。だから、バイオハザードは、とんでもなく怖い。多分、だめだ。映画なら、絶対にこっちに来ないからいいけど、(それでも、ゾンビの登場する映画で、ぴくぴくする死体のシーンは、かなり怖かった覚えがある)ゲームだと本当にこっちに来るような気がするから駄目。それをしかも自分で倒さなくちゃいけないんだからもう全然駄目。

ゾンビって、死んだ人間の肉体の生き返ったモノである。そこには、こころとか魂とかってものがない。ただのモノ。
そこいくと、幽霊は、まだ理解し合える余地があるような気がするのだ。幽霊は、死んだ人間の精神部分の生き返りだから、なんとなく怖くない。怨霊とかもそうではないか。そこには、何か、わたしにも理解できるモノがある。精神性というのか。わたしにとって、概念とか象徴とかってものは、あんまり怖くないのである。

しかし、だ。ゾンビって、肉体だけのモノなのだ。ただ、肉体のみが動いているだけなのだ。そこには、何も精神性が感じられないのである。ただの肉が動いているというか。それって、わたしにとっては、かなり怖いのだ。多分小学生の頃にゾンビの映画を見てしまったせいか?とも思うけども、でも、幽霊ものも色色見ただろうはずなのに、やっぱりゾンビが怖いということは、これはわたし固有の現象なのだろう。
やっぱり、理解しあうことができないと思う対象は、恐怖の対象になるんだろう。わたしの中にないものは、怖い対象になるんじゃないだろうか。
それじゃあ、ありのままに対象の存在を受け入れたとしたら、恐怖はなくなるんだろうか?でも、そしたら、ゾンビが来るのをありのままに受け入れたら、頭を食われるだけだろうか。ゾンビのほうは、パブロフの犬状態になってるんではないだろうか。犬というと、まだ考えがあるみたいだから、電気のスイッチとでもいうか。ON/OFFの世界。人間がいる=襲う、誰もいない=襲わない。そんな風にできているのだ、ゾンビは。

恐怖ということは、そういうことだけど、こんな人間とか動物でもないわけのわからないモノならば、倒しちゃえば済むけど、たとえば、それがこの世に普通に存在しているもので、この世の範疇でないものへの畏怖は、どう対処すればいいか。

実は、一昨日の日記に対して、あるメールをいただいたのだ。メールの内容を要約すると、「怖い」という感情は、つまり「畏怖」のことなのであり、人間世界の秩序の外の現象は、「怖れ」の対象になるのだ。そして、そのような怖れの対象は、「聖化」されるか「賤化」されるか、どちらかなのである。という内容のものでした。これはほんとその通りだと思うのだ。
ところで、この「聖化」されるか「賤化」されるか、ありがたがるかおとしめるか、という存在として、一番ピンと来るのは、「女」である。つまり、娼婦。娼婦は、歴史的に見ても、おとしめられた存在である。っていうか、社会の裏の存在。
その昔、神殿には、神殿娼婦がいたそうだ。つまり、昼間は巫女で、夜は売春婦という存在。これこそ、「聖化」と「賤化」の極端な例である。こういう一定の相手じゃない男性と性交する女性の存在って、やっぱり、その世間の中では、どこにも入れられない存在なのだろう。どこにも世間の枠に入れられないのに、この商売がすたれないってのは、やはり需要があるんだろうか。

世間の枠に入れられないもの、世間の一員として認められない存在っていうのは、「聖化」と「賤化」のどちらかになるんだろう。
世間の枠に入らない存在、以外の存在こそが、世間の一員である。そうやって考えてみれば、なんと世間の構成要員と思われている存在は、限られた存在かよくわかる。健康な大人の男女。これだけがそんな存在なのだ。それ以外は、「聖化」されるか「賤化」されるかどちらかなのだ。

ところで、この「聖化」と「賤化」の道を辿る存在は、多分、世間の構成員よりも「死に近いもの」と思われてる人人じゃないだろうか。娼婦が死と近いものかどうかは、一概には言えないけど、生殖を伴わない、快楽のためだけの(この場合の快楽は売り手ではなく買い手のみのものであるが)性行為は、死に似ているんではないだろうか。

結局、人の怖いもの、それは「死」なのである。

自分の恐怖の対象、ゾンビについて考えてみても、結局わたしの怖かったものとは、「死」に関係あるように思うのだ。
つまり、人間の怖いもの、いや、わたしの怖いものは「死」なのである。
ゾンビという精神のない肉体だけの復活した存在が怖いのは、結局、死んだら精神がなくなること、その象徴であるゾンビが怖いのであろう。
精神がなくなった後も、身体は残る。もし、その身体が動くとしたら、そこに精神が死んだ後の世界を見るだろう。なにか得体の知れない死の世界を垣間見るようで怖いのではないか。精神が死ぬことはまだいいとして、その後にも肉体は残る。これが怖いのではないか?
ゾンビは、わたしにとって、死そのものを象徴しているのだろう。精神の死。意識の死。その後に来ると思われるもの。それがわたしは怖いのだ。

「死」という時、それは、いつも他人の死である。自分の死は、どこにもない。あるものしか、わたしにはないので、ないものであるわたしの「死」を、わたしは知ることがない。結局、自分で知っている気になっている死は、「他人の死」なのだ。
だから、わたしは、他人の死によって、自分の死の存在を信じているわけである。
死を信じている。これはある意味で、宗教みたいなものかもしれない。まだその存在を知らないのに、信じているのだから。

この「死」の存在ということを考えた時に、浮かぶのは、小林泰三の『玩具修理者』の中に収録されている『酔歩する男』である。ここでは、「死」がないのだ。存在を「意識」の連続だとした時、この作品の中では、「死」が存在しなくなるのである。そう、『酔歩する男』は、「死」の存在しないことを書いた作品なのである。
これは、「死」を信じていたわたしには衝撃的な内容だったのだ。いや、当時それを読んでる時には、その衝撃はよくわからなかったのだ。今ならば、その衝撃をよく了解できる。つまり、「死」が存在しない可能性を追求した作品だったから、「死」の存在を信じているわたしには衝撃的だったというわけ。

だんだん話がずれてきているような気もする。
わたしの死は、存在しない。でも、その存在を信じているわたし。それは、他人の死があるからだ。そう、結局は、わたしの考えている死は、他人の死であり、「わたし」の死に対しては恐怖を感じるのだろう。
わたしの死を知ることはできない。ただ、考えてそれに近づくだけだ。そこに到達することはないのだろう。でも、今日も、わたしは考える。それだけが「死」に近づく手段だから。

[1999.04.01 Yoshimoto]
 
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