架空の庭 [2003.01.19]
以前、何かの本で読んだことなのだけど、「型」と「形」は違うものなのだ。
たとえば、茶道や華道といった○○道というものには、「型」がある。師匠が、これを弟子に伝えていく。つまり、こういった「型」を継承していくことが「○○道」の基本なのである。
ところで、どんな○○道においても、その○○道のキィポイントとなる時には、達人が登場している。その人物がキィとなり、その○○道は新たな展開を迎えることになるのだ。全然違う流派ができるなどして、新しい「型」が登場するのである。古い型を踏襲しつつも、全く新しい「型」が登場するのだ。そして、その型を取り込んでまた○○道はすたれることなく継続していく。
この達人、もしくは、継続していない領域へ飛躍してしまった天才たちが、多く登場すれば、それだけ、○○道としての内容が充実するし、多様性が広がるのである。多様性が広がるということは、生き残る確率が増えるということだ。どんな新しい「型」もその中に吸収してしまうアメーバのような○○道のほうが、確実に後々まで残るのである。ただし、後々まで残ることがよいことか、悪いことかという判断はとりあえずおいておく。
○○道としての生命力は、型の破壊→新たな型の誕生という繰り返しがなければ、かなり弱まってしまうのではないだろうか。
それでは、その「型」とは何ぞや、ということに当然なるだろう。「型」とは、多分「姿勢」だ。その「型」を生み出さざるを得なかった思考。意匠。コンセプト。
つまり、「型」とは、本来なら目に見えない思考が、目に見える形になって現れている空間なり事象なりモノなり動作なり、を指す。
だから、「型」には、その「型」を生み出した「姿勢」、その「型」が生み出されるプロセス、というものがすべて含まれているのであり、身振り手振りなど目に見えるモノだけで構成されているものではない。
例えば、生け花の場合なんかは、ここは三角とかここは流れるように、などと言った花を生ける「かたち」がある。だが、それが単なる形だけを示している場合はそれは型ではないのである。生け花は、「場」「空間」の再構成なのであり、その空間上に現れるものは、その形を生み出した思考なのだ。そして、その再構成は、花によって行われている。
では、今度は、この「型」を踏まえての、「型破り」ということを考察してみよう。
「型」破りとは、「型」の破壊のことである。しかし、「型」を破壊するためには、破壊する対象をしっかりととらえていなくてはならない。「型」破りは、その「型」の正当な後継者でなければできないものだ。本物でない者がいくらその「型」を破壊したとて、「型」はびくともしないだろう。破壊は、その過程、背景、思想、姿勢というものは受け継いだ者にこそ、行える行為なのである。大事なのは、形を真似ることではなくて、「型」を理解していること、なのである。
身体という「場」を使っている場合、ますます「形」だけを真似してもだめである。
バレエを始めてすぐに習う基本形をおさえていなくては、新しいバレエは踊れないと思うのだ。
「型」には、目に見える「形」があるから、どうしても思考を共有できない人々は、「形」だけが目に付いて、「形」だけを継承してしまう。肝心の「型」=思考はおいといて、とりあえず形を。
「型」は、正しく自分のものにしてしまった場合、自分の思考というものがどうしたって既存の「型」からはみだしてくると思うのだ。「形」とは、目に見えるのだから、ある時点で、変化が止まっているものであり、一方、現在の意識、思考とは、常に変わりつづけているものだ。常に変わりつづけているものを不変のものにあてはめたとしたら、これはどうしたって、はみ出してしまうではないか。
このようなはみだしにより、既存の「型」は破れて、独自のスタイル(これは「ゆらぎ」というらしい)が生まれてしまうのではないだろうか。しかし、先ほど述べたとおり、「ゆらぐ」ためには、土台がしっかりしている必要がある。
新しい「型」を吸収しつづけ、常に変わっていくジャンルは、強いものだと思われる。
たとえば、生命体を例にとればわかりやすいだろうか。生命体がその種を存続させるためには、その生命体が多様に変化していることが必要なのである。また、偏食も、その種を短命に終わらせる原因となるのだ。何でも食べられれば、それだけ、生き延びるチャンスにつながる。
そして。
「わたし」という「型」もまた、精神も肉体も変わりつづけていて、同じ瞬間なんてないのだ。かろうじて、記憶が、断続的な意識をつないでいく。
けれど、「わたし」という「型」は継続していくのだ、死ぬまではね。
[1999.09.09 Yoshimoto]
[BACK]