架空の庭 [2003.01.19]  
日記 セレクション

「個」とフェニズム

最近、フェミニズムに関して考える機会を持った。
思い起こせば、大学時代。私はかなりフェミニズムにかぶれた。上田千鶴子さんの本や小倉千加子さんの本を読みまくった。

でも、フェミニズムに関係なく、上田千鶴子さんの『スカートの下の劇場』とか、小倉千加子さんの『セックス神話解体新書』は面白いので一読をお薦めだと思う。

話を戻す。フェミニズムのはなし。
上記の本を読んだりして、大学時代のわたしは、男女平等、ていうか、女性の差別に異常に敏感だったわけだ。
とにかく、言葉自体からいけない。例えば、「女医」。医者は、男性であるという考えに基づいて、できている言葉だとしか考えられない。女流作家もそうだ。とにかく、弁護士とか医者とかそういう男性がなって当然と思われている職業に、女性がなった場合には、「女」がつくのが一般的なのである。
また、「家内」、という言葉。これも、おんなは家にいるものだ、という概念がなければ生まれない言葉であることは、疑いの余地がない。「奥さん」とかもそう。逆に、「旦那」とか「亭主」なんて言葉は、家庭内で誰がえらいのかってことが一目瞭然になるわけである。
もう、そんなことをあげていたら、全くきりがないわけである。

そんな風に、大学時代には、過激なフェミニストであったわたしも、男女平等なのは当たり前のことなので、そのことについてそんなに燃えるようなことはなくなっているのである。

人間、当然のことは、なんとも思わないものだ。

だから、わたしは、今は、男女がどうの、とかいうことにはそれほど、燃えない。
逆に、上に挙げていた「言葉」だけにこだわっているとしたら、その女性は、本人の嫌がっている男性社会のものの見方をその本人も持ってるってことになるのじゃないかと思うのだ。
その社会の尺度でものを見てるってことになるのだ。本当に、男社会を超えたものの見方をするのならば、そんなことは取るに足らないことなのだ。名前とかそんなことはどうでもいいのだ。

女も男も同じ生物である以上同じなのだ。肉体に性差はあるけども、それはそれだけのことで、それ以上でもそれ以下でもないのである。肉体の違いだって、個性、なのである。女であること、も、わたしにとっては個性のひとつなんである。

しかし、男女差別に凝り固まっている男性個人のこころについては、もう、どうしようもない。
そういう輩は、いくら、女権の拡張だ、平等だ、といっても、こころの中は、全然違っていたりする。表面では、女性の権利を認めていても内心では「けっ女なんて」と思っている男性が、いるのである。
でも、これはもうどうしようもない。そんなこと思うな、と言ったってそれは無理。こころは自由なのである。駄目といったって、そう思っていることを止められるわけはない。だから、そう思ってしまう思考をとめなければ、本当の男女平等にはならないわけである。
ただし、自由といっても、全て本人の意志ということではない。環境とか時代とかそういう周りの影響を受けてこそ、個人のこころはあるわけだから。だから、そのひとがそう考えているとしたらそれはやっぱり、社会がそういう社会だから、そうなるのである。

だから、女性がそういう運動をどんどんして、社会のこころを目覚めさせていくのは必要なことだ。それはそれで私は応援したい気持でいっぱいだ。

ただ、女性は、やっぱり女性で女性にしかできないことがある。子供を産むことだ。これだけは、男性は今のところ絶対にできない。でも、生む生まないは、個人の運命だから、これはしょうがないとして、ああ、また話しがそれてきた。

要するに。
何が言いたいかというと、社会は個人の集まりで、だから、結局は個人が自分の個をどう見極めるかということを自覚してくれる社会、になってくれたら、もっと住みやすいのに、ということだ。
だから、男性か女性かもそのひとの個性を決定する材料のひとつにしかすぎないし、それ以上ではないわけで、でもそれ以下でもないのだから、個は個たれ、と思うのだった。「個」というものをもっと自覚してくれれば、表面的には女権を拡張しつつ内心ではやっぱりけっ女なんか、とか思う男性が減ってくれるのではないか、と。

[1997.11.27 Yoshimoto]
 
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