架空の庭 [2003.01.19]
わたしは、「ファンタジー」と「現実」についての考察(こっちも見てね!)という文章の中で、「現実」のイメージと「ファンタジー」のイメージとは、実は等価なものであるという考察を展開してみた。
そこで、今度は、この「イメージ」とは一体どういうものであるのか、ということを考察していきたい。
まず、「ファンタジー」の流れから、「イメージ」という言葉が出てきたので、「ファンタジー」と「イメージ」の関係について、考えてみる。
「ファンタジー」というのは、「イメージ」と関係が深いと思うのだ。「イメージ」とは、その人の中にある像のことだ。ある事柄に対するその人のイメージは、その人の中のその事柄となる。その人の中のリアルになるのだ。たとえば、わたしが、誰かのことを頭の中に思い浮かべた時、そのイメージは、わたしの中のその人そのものなのだ。というか、実は、わたしには、その人そのものは一生認識することはかなわず、もっぱら、そのイメージしか認識できない、とわたしは考えているのだけど。
で、イメージというのは、その人の中で混沌としてるもので、もしかすると、認識=イメージといってもいいくらいのものだとわたしは考えている。神話というのは、世界認識のイメージとして、誰の中にもヒットするイメージなのではないかと思うのだ。
そして、ファンタジーとは、この誰の中にもある「イメージ」を、ふるわせるものではないかと思うのだ。
世界認識のイメージというのは、割と人人の中でも深層の部分にあるものではないかと思うし、表層的なイメージも勿論あると思う。その深層部分をふるわせるファンタジーもあれば、表層的な部分を高揚させるイメージもあるのではないだろうか。
いや、何のイメージがその人の深層部分にあるかってのは、人によってばらばらなことだろう。
特に、現代ではそういう傾向が強いと思うのだ。なぜなら、昔は、物語はそんなに沢山はなくって、割と民族で普遍的なイメージってのがあったと思うけど、現代ではそれは崩れてきてるのじゃないだろうか。
でも、イメージには、民族の壁はないので、そのイメージに触れて、それを理解可能な土台さえあれば、そのイメージは、その人の中に浸透していくものではないかと思う。
で、普遍的なイメージをふるわせる神話というものは、どの世界の人間をもふるわせるイメージを持つのではないかと思う。
要するに、恋愛ドラマしか見たことなくて本なんか読まないよという人でも、その人にとってはそれがファンタジーになってるんだ、と言いたかったわけなのである。
そういう意味で使う時、わたしが使っている「ファンタジー」というのは、「ものがたり」という言葉とほとんど同義語なのかもしれない。癒しのファンタジーというのは、「ものがたり」なのだ。そして、現代は「ものがたり」にあふれた世の中なのではないかと。ドラマや小説や映画やあちこちに「ものがたり」があふれているのだ。
「イメージ」というのは、恐らくはその中に内包的に「ものがたり」を含んでいるものなのではないかと思う。だから、「イメージ」は、それなりに「ものがたり」になってしまうのだ。
では、逆に、「イメージ」を、「ものがたり」の形にしなかったらどうなるだろうか。それは、きっと「癒し」にはならないような気がする。「イメージ」は、「ものがたり」の形にして初めて「癒し」になるのだ。
「イメージ」を「ものがたり」化する時、その時点で、「ものがたり」の中に、その行為者の思い込みとか執着とか常識とかそういう雑多なものが入ってくるのだ。
そうすると、「イメージ」は、「イメージ」そのものではなくなる。
多分「イメージ」というのは、その人間の思考の中の深層部分に当たる気がするのだが、その深層部分の思考のイメージそのものが、「ものがたり」になることによって、表層部分の認識にまで上がって来てしまうような気がする。
その人の深層のイメージを、その人の執着とか偏見とかにまみれさせないで、そのイメージそのままを持ってくる。言葉にする。たとえば、神話なんかはそういうものなのじゃないだろうか。不条理と思えるほどのイメージ。人間は、すぐに不条理を排除してしまうので、不条理なイメージというのは、きっと、イメージそのままの姿なのだ。
そういう「イメージ」というのが、この考察においてのキィワードであると思われる。
以上から、「イメージ」そのままを、作者の偏見とか先入観とか色色ごちゃごちゃをまじえずに昇華させたものが「神話」のようなものであるということがわかった。
そこで、今度は、視点を変えて、「神話」がどういうものなのかを探ってみる。
「神話」というのは、異国のものでも、心の中でイメージが像を結びやすいものである。たとえば、わたしが北欧の神話なんかを読んでも、割とすんなりと心に入ってくる。とても面白く読める。
神話には、その国の習慣とか風習が神話に紛れ込んでいて、その文化独自の世界観が形成されているわけである。だから、自国の文化と似ている神話だからすんなり入れる、というわけではない。では、神話が、普遍的に人人の心をとらえるのはどうわけだろうか。
たとえば、北欧神話に登場する片目で片足の神様は、鍛冶屋のイメージであるとか。そういう鍛冶屋のイメージは日本にはないように思われる。太陽のイメージが、女であったり、男であったりするのも、国によって違ったりする。
けれど、神話は、「イメージ」として見た場合、割と誰の心にもある風景なのではないかと思う。それは、神話が、誰の心にもある普遍的なイメージを、なるべく作成者の意図とかを入れずにそのままを言葉にしたものであるからではないかと思う。
そういうわけで、「神話」は、明確なものがたりを持たないだらだらとしたイメージの羅列のようなものになるのではないかと思う。
そこで、だ。いよいよ、タイトルにある「イメージ」について考察してみることにする。はたして、「イメージ」とは一体どんなものなのか。
「イメージ」というのは、理解不可能なものだと思うのである。ああなってこうなる、という理解を拒んでいるような気がする。
「イメージ」とは、人の認識の原風景なのだ。
「イメージ」というのは、言葉にすることが非常に難しいと思われる。普段の意識には、理解不可能なものだと思うのである。ああなってこうなるものである、という理解を拒んでいるようだ。その「イメージ」を、これはこうだからこうなのだ、という風に理解しようとすると、それが「ものがたり」になるのではないかと思う。時の流れ、因果の流れに変換した場合に、イメージは「ものがたり」となるのではないだろうか。
しかし、本当の「ものがたり」化してない生の「イメージ」は、最初から最後まで全てを含んでいるのだ。それはつまり、「ものがたり」全てを含んでいるということである。
●「イメージ」とは、はじまりも終わりもない、混沌としたものなのである。
「イメージ」は、こういうものである、という理解をしてしまった時点で、その「理解」から逃げてしまうもののような気がする。「ものがたり」になった時点で、「イメージ」は、固定してしまう。これと決まってしまったものは、すでに、「イメージ」ではないような気がするのである。
●「イメージ」とは、常に変容しつづけているものなのかもしれない。
「イメージ」とは、人の意識そのものではないかと思うのだ。いや、プレ意識状態というべきか。意識になるものなのだ。まず「イメージ」を感じてから、「認識」するのだ。
●「イメージ」とは、理解するものではなく感じるものなのである。
「イメージ」というのは、狂暴なもののような気がするのだ。なんとなく。そして、イメージに現れられてしまった人は、そのイメージに憑かれてしまうのではないだろうか。
けど、「イメージ」そのものの姿では、人の意識にとってはかなり凶暴なので、「イメージ」を理解しようとする。既存の「ものがたり」は、その人のイメージを固定化するのに、役立つのかもしれない。でも、「イメージ」を定義して固定してしまっても、「イメージ」はきっと変容しつづけ、いつのまにかそこからはみ出していくのだろう。だから、また、新たな「ものがたり」を人は模索しつづけるのかもしれない。
[1999.11.12 Yoshimoto]
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