架空の庭 [2003.01.19]
「文武両道」という言葉がある。
文も武も学ぶことである。文は、脳を使って学ぶこと。武は身体を使って学ぶこと。
養老氏によれば、心と身体は別のものではなくて、脳の中で、心を司る部位と、身体を司る部位が違うというだけのことであるのだ。
ところで、この身体を通して表現すること。というのは、本だけを読むわたしにとって、あまり縁がないことかもしれない、と思ってた。だって、スポーツはしないし、ダンスもしないし。剣道とかそういうのもしない。
しかし、わたしは、気がついた。
身体を使って何かをするということなら料理とかだってそうじゃないだろうか?
わたしは、料理をするのが結構好きだ。へたくそだけど、作るものもワンパターンだけど、でも、料理することは楽しい。それを家族が食べて喜んでくれるのも美味しいものを食べられるのも嬉しいが、作ること自体もとても好きだ。これは身体を使ってることにはならないだろうか。
身体を使って、何かをしていると、身体が熟練していくことになる。
料理だって、熟練の技である。一流の料理人の技を見ればわかる。
熟練していく、身体で何かをつかんでいく、これが、文武両道の「武」だとするならば。
わたしは、思う。ゲームもそうなのじゃないかと。
ゲーム道というのは、熟練していけばいくほど、武道の精神に近づいていくような気がする。
格闘ゲームのコンテストで優勝するほどの腕前の人人、またはぷよぷよなんかで8連鎖とかむちゃくちゃすごい人人がいるが、そういう人人というのは、武道に打ち込む人人の精神に近づいているのではないかと思うのだ。
「文」の入り込まない、身体を使うことによってのみ到達できる精神の境地。
話は全然変わるけども、わたしは、スクウェアのFFシリーズが大変好きである。しかし、真のゲーマーからしてみれば、あれは中途半端なものだろうというのも、前から思っていることである。
では、この場合にわたしはどういう意味で「真のゲーマー」という言葉を使っているのか?わたしはこの言葉で、どういう人人を指そうとしているのか?
これには、わたしはうまく答えることはできなかった。
ただ、ゲームマニアな人人だろう、プレステよりはサターン、ドリームキャストを選択する人人だろう、という、漠然とした認識しか思ってなかったのである。
ここで、「ゲーム道は武の精神に近づく手段のひとつである」としてみよう。
そうすると、つまり、「真のゲーマー」とは、武道に励む人人ということになるのである。
そう、ゲーム道は、修行、なのである。
ところが、である。FFシリーズは決して修行ではないのである。FFシリーズは、エンターテインメントなのである。それも、視覚的要素の強い娯楽。
真のゲーマーが、ゲームをしている時に満足している脳の部位は、「武」道によって磨かれる部位と同じなのだ。身体的要素の部位だ。ところが、FFシリーズは、多分そんな部分は満足させちゃくれない。今、がんばって、ATB制だとか導入しているけど、でも、しょせんコマンド入力しちゃえば、見物するだけ。そこには、修行による上達なぞ、入り込む余地はない。どちらかといえば、手続き。そういえば、ファンタジーには、手続きが必要ではないか。手続き、というか、おきまりというか。お約束というか。
FFシリーズとは、視覚的な刺激があって、手続きをふむだけのゲームである。つまり、非常に日本人向けのゲームである、というわけだ。
そういうわけで、真のゲーマーとは、ゲーム道で修行している猛者たちなのであり、FFシリーズを楽しむ一般ユーザとはちょっと違うのであった。
考えてみれば、真のゲーマーたちの愛するゲームとは、修行の必要なゲームばかりなのではないかと思う。彼らは、マニアだとかオタクだとかではなく、実は武道の修行に励む修験者たちだったのである。
だからこそ、彼らにとっては、FFシリーズなど生ぬるいとしか感じられないのだ。
ドラクエも、1はそういう修験者的要素の強いものだったと思う。しかし、3でそういう要素とエンターテインメント要素の割合が逆転したのではないかと。そのバランスは、でも、マニアにも一般ユーザにも受けるぎりぎりのバランスだったのではないか、と思ったりする。
で、3から後は、3の遺産をひきずっている。ドラクエ世界が好きな人にはそれでよいが、エンターテインメントを求める人人(スクウェアのゲームを求めるような人人)にとっては、ちょっとマンネリに感じられるのかもしれない。
そういう風に考えると、飯野氏が「リアルサウンド」のような音だけのゲームを作ったのは、本当に面白い試みだったわけだったんだよね。
[1999.05.06 Yoshimoto]
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