架空の庭 [2003.01.19]  
日記 セレクション

日本という国は、血縁関係にとてもこだわってるような気がする。血のつながっている、つながっていない、ということを必要以上に大切にしているように思うのだ。

例えば、子どもができなかったら、養子でもいいのじゃないか?と思うのだけど、日本だと、子どもができるようにする不妊治療の方がすごく発達していってるように思う。身も知らぬ養子というのは日本ではあまりない。
もし、養子を取るとすれば、妹の子どもとか親戚の子どもとかであり、養子ということは絶対に隠す。アメリカとかだと、血のつながっていない親子というのは、日本より多いのじゃないかと思う。養子も多いらしいし、離婚が多いのだから、自分の子どもを連れて、再婚するケースもあるだろう。

要するに、「家族関係」って肉親とか血縁だから生まれるものじゃなくて、一緒に暮らしていくうちに築かれていく関係だと思うのだ。だから、いくら肉親といえども、離れて暮らしていて、互いに関係をキープしようとしなければ、家族関係は壊れると思う。
でも、母親というものは、特に、日本の母親は、子どもへの執着が強いから、子どもが嫌がっても関係を無理矢理ひきずっていく、というケースは多いだろう。そういう場合は、子どもが切りたくても、家族関係(というか、母の執着だけの関係)は壊れない。でも、それは、決して対等な関係ではないので、子どもには負担である。

肉親というだけで、強い絆で結ばれていると思うのは幻想である。肉親といえど、きちんとした家族関係を築いてなければ、他人と同じであるとわたしは思う。執着、という理由でつながっている関係は、あまりよいものではない。家族というものは、お互いの妄執や執着でつながってるものじゃなくて、対等なお互いの個性を認め合った上で、築いていく関係であってほしいと思うのである。

わたしは、姉妹でも親子でも友人でも、どんな関係の人間でも、とにかく気が合うひとと、お互いの独立性を尊重しつつ、人間関係を築いてゆくことができれば、それでよい。そういう人たちと深い人間関係を築くためには、その前提として、自分一人で立っていられるちゃんとした個人でなければならないと思うのである。

だから、ゆうきとも一生いい関係を結んでいきたいと思うけど、その前に、まず、ゆうきにきちんとした個人であってほしいし、その上で、対等な関係を結ぶことができるといいな、と思っている。って4歳児にはまだ無理だから、そのうち、ゆっくりとそうなってゆきたい。勿論、わたしも人としての過程の途中だし、そういう点ではゆうきと同じなので(ちょっと前から人間であるだけ)一緒に成長していければなあと思っているのだ。

父親は、母親と違って、子どもとのつながりを実感するのが難しい、とよく言われる。でも、一緒に生活して、色色な歴史をつみあげていくことこそが、父親と子どもの絆を結んでいくわけで、「自分の子どもであるという実感」を安易に求めてもだめなのである。(この場合、歴史を重ねていくやり方は、人それぞれであるから、ここは自分で考えないとだめである。)勿論、子どもを育てるために、「自分の子どもである」という実感が必要ならしょうがないけど・・・。でも、その場合、自分の血を引いていなければ嫌!というのが感じられて、それはそれでなんか嫌である、個人的には。
元々、父親っていうのは、育児に必要な存在、というよりも、子どもに母親以外の要素を感じさせるためにいるようなものじゃないだろうか。母子以外の社会の代表、みたいな・・・。どうも、母子って一体化しやすいみたいだし。

また、血縁関係にこだわる、という話とは別に、人は、産みの母にこだわる。この場合、恐らくは、血縁関係にこだわっている、というより、自分のルーツを探るとか、存在そのものへの疑問を問い掛けている、という意味があるのではないだろうか。だから、本当の自分の産みの親を見てみたいという気持もあるだろうけど、そういう場合、実際に親に会ってみても「なんとなく違う・・・」と思ったりするのではないかなと思う。自分にそんな経験はないのだけど。

つまり、なぜ自分が捨てられたのか?なぜ自分は生まれたのか?という問いを解消する手段として、産みの母親に会うのである。でも、実際には、その問いは、産みの母親に会っても解消されないのである。本当に必要な解答は、親に会うことではないのだ。
この時、捨てられた子どもが本当に疑問に思っていることは、「自分はどのような理由で親に捨てられたのか?」ということではなく、「なぜ、こんなにたくさんの人間がいるなかで自分だけが親に捨てられなければならないのか?」ということである。だから、「他の男と駆け落ちしたかったからお前を捨てた」などと言われても、上の疑問は解消されないのである。

でも、こういう疑問も、血縁関係に対するこだわりさえなければ、なくなるような気もする。親なんて所詮たまたまこの世に自分を送り出してくれ、養育費を出してくれた人物にすぎないのである。だから、産みの親である必要もないし、産みの親に育てられなくても、親がなくても、そんなことはあまり問題でなくなるのである。それで自分が満足していればそれでよいのである。自分がなぜこのような自分であるのか?という問いは、自分で考えなければならないのである。

[1999.06.18 Yoshimoto]
 
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