架空の庭 [2005.11.03]
【2004年6月27日(日)】
どもよしもとです。
すいません、すごい、(つづく)とか書いておいて、放置しておいちゃいました。
まず言い訳しておくと、仕事忙しくて。いつもいそがしんだけど、ほんとに、最近は特に。毎日変動するんですよ。状況が。本当、おおげさに言うと、戦地のような感じ。そんななまちょろいものと一緒にするな、と怒られそうなんだけど、比喩的表現ということでカンベンしてくだされ。そんな感じで、毎日最前線にいるって感じなんです。で、最前線にいると、戦地向きな人とそうでない人が世の中にはいるなあってつくづく思う。日々変る状況に合わせて、作戦とか変えていって、日々の状況に合う状態に修正しないといけないし、でもそんな中でもやっぱり大前提の方針ていうのはじっくり考えていかなくちゃ、見失ってしまうし。やはり、目的がないとだめですよね。そんなわけで、そんな中で仕事をしていると、やっぱり、つかれますね。だから家に帰ると1杯飲んでぐっすり寝るってことで、自分を成り立たせていました。
映画は、「キューティー・ハニー」、「ビッグ・フィッシュ」、「21g」を観ました。
キューティー・ハニーは、試写会で当たってなんとなく観に行ったんですけど(もちろん、監督に興味があって)、これが、予想以上に面白かったです。キャシャーンより面白かった。わたし的には。いいんです、ちゃんとした評論家のいうことでもないから誰も気にしないでしょ。なんか、奇しくもどちらにもミッチーが出てて、なんか雰囲気似てたんだけど、やはり、庵野監督はただものではないね。面白かった〜。DVDかおっと。サトエリはなんであんなに完璧なカラダなんだろね。すばらしい。かんぺき。文句のつけようがない。人間のカラダとは思えない。それくらい、すっばらしいプロポーションでした。人間のカラダとしてキレイ、というよりも、ほんと、人形のカラダに近いんだよね。
「ビッグ・フィッシュ」よかった。ラストは、もう涙がだらだらだらだら流れて、一緒に観に行った友人が電気ついた瞬間にわたしの顔を見て、びっくりしたくらい。久久に、いい映画を観たなぁって思った。
「21g」はすごかった。すごすぎて、しばらくはこの世界に帰ってこられなかった。復帰するのにしばらくかかっちゃった。
ショーン・ペンて、わたしの中では、マドンナと結婚していた人というイメージしかなかったんだけど(なんて貧しいイメージ!超失礼、でも知らないってことはそういうことだよね〜)、そんなのがふっとんだ。素敵。なんていう素敵な人なんだろう、って思いました。俳優、なんだね。すごい俳優だなって思いました。俳優って単体よりも、演じてる時のほうが魅力あふれるものだけど、ほんと、そんな感じでした。これはもう本当に切ない映画だった。
ナオミ・ワッツは、多分アメリカ人の女性って感じがしない、小柄な美人で、日本人男性にも多分うける感じなんだけど、本当に、映画の中ではダイナミックな感じが出てきて、素敵になる。多分、わたしが監督なら、安心して仕事をまかせられる女優さん、て感じなんだろうな。観る観点は、その時の自分の観点でしか、常にみられないものです。
そして、最後の一番重要な役の俳優さんは、本当に、人間そのものって感じがした。人間て、善と悪の矛盾の中で、生きていて、何がよいことなのかすぐ見失うよね。というより、わたしは日本人なので、多分絶対的な善(神)というものの存在を信じていない。でも、信じているはずの西欧人でも、やっぱり、見失うんだなって、思う映画だった。善と悪って、どうしても人間にはどちらかに属せるという単純なものではないと思う。どうして、どうして、こんなに善の中で生きている自分にこんなつらい運命を背負わなくてはいけなくなるのか?っていうことが起こるんだ。それは、実は運命とかじゃなくて、多分、確率的なことだから、そういうことが起こる人間が、善の人の中にも絶対存在してしまう。そんな中でも、最後に救われた、って気持ちが起こってしまう映画でした。月並な感想だけど、映画の後に、自分の21gについて、考えてしまう内容だった。
【2004年5月9日(日)】
ども、よしもとです。
観ちゃいましたよ。例のだんなさんの映画。あんまり悪口を名指しで言うとやばそうなんで何を観たかははっきり言わないすけど。(前に観たいなぁってはっきり書いたっつーの)
あれ観た人どうでした?わたしには、なんていうか、ビミョー…でした。(つづく)
【2004年5月7日(金)】
キャシャーンが観たいなぁと思っている今日この頃です。でも、観たいなぁと思っているうちに、最近、GW映画が多くて、キャシャーンのスケジュールがどんどんなくなっていってます。終わっちゃう前に観に行かないと!
昨日の日記はちょっと愚痴っぽい。最近年をとったせいか、他人に対する文句をすぐ言っちゃう。反省しなくちゃいけない。
最近ちょっと気が向いているので更新かけてみている。そんな感じなので、ちょっと過去日記をわけてみた。ここも移転したばっかりの仮処置みたいなまま、ずるずるって感じで更新してるから、ちょっとだめだめですね。でも、めんどくさいから、しばらくこのままかな、みたいな...。
【2004年5月5日(水)】
今日はちょっとうれしいことがあった。
人って、なまけものと思う。ていうか、年がいくにつれて、精神的ななまけものになると思う。わたしが精神的に若いっていうつもりはないんだけど、なんとなく、わたしと同年代の人って、他人と理解しあうってことに、横着になってる気がする。それはまあ、ある程度、仕方がない。だって、職場を変らないなら、毎日毎日、同じ生活の繰り返し。家に帰れば、配偶者や子どもがいて。なんの変りもない日々。毎日毎日、ただ生きているだけの日々。わたしと同年代の人たちなら、うなづいてくれると思うんだけど。
あなたの毎日は、毎日同じことのくりかえしじゃないですか?10代の頃の、他人の存在を強く感じる、そんな日々はないと思わないですか?痛いほど、誰かの不在を感じてしまう感情が、あなたには存在しますか?
そんな毎日の繰り返しの中で、この日記を書いて、たまに反応をもらったりすると、なんていうか、忘れていた感情を思い出す。それは、忘れてはいけない感情と思う。でも、日々の生活に、埋もれがちな感情。実は、正直にいうと、同年代の女の人と飲みに行っても楽しくないんだよ。彼女らの関心事は、子どもと夫とテレビのことしかなくて。そりゃあ、わたしの関心事は仕事でしかないのは認めるよ。精神的には、「オヤジ」であることは認める。反論の余地もないよ。仕事して、家に帰って来て、ビールで一杯やるのが、今の唯一の楽しみになってるからね。でも、オヤジであるわたしが言う権利もないとは思うけど、同年代の女の人のつまらなさも、なんとかしてほしいと思う。話してても、かみあわないのだ。
この間、若返りの秘訣として、昔よく聞いたなつかしの音楽を聴いたり、青春時代を思い出すような趣味をはじめること、とかいうのをテレビ番組でやってて、ぞっとした。
なんで、昔やってたことにしか、興味を持てないの?昔やってたことと同じことをすることでしか、ホルモンが出せないの?(昔のなつかしの音楽を聞くと、若返りのホルモンがでるんだって。)わたし、ぞっとしたよ。それは、明らかに、精神力がおとろえてる証拠なんじゃないの?なんでいまの音楽を聴いてそのホルモンが出ないの?
それは、青春時代の思い出でしか、自分の若い頃の感受性を復活できないからだよね。なぜ、今の音楽を聴いて、今、その感受性を呼び起こすことができないの?いま、若い頃の感受性を、なぜ、持てないの?
そのことにはなんの疑問も持たず、なつメロを聴けばホルモンがでますよ、とか言われて、これ幸い、と80年代の音楽とか聴いてる同年代の人にはぞっとする。なんだか、それは、話が逆になってると思う。今の音楽を聴いても、昔の感受性を復活できない、じゃあ、昔の音楽をまた聴けばいいんだ!じゃあ、あんまり解決になってないと思うんだ。どうして、感受性が衰えたのか?ってことの、根本的な解決になってないよね。
っていうか今日はなんかぐちっぽくなっちゃった。
本当はうれしいことがあったのに。
今、まさに、他人と正面からぶつかりあって、喜んだり悲しんだり、真っ最中の人もいて、そんな人のこころの負担を少しでも、軽減できたら、それは本当に、この日記をやっていてよかったなって思うこと。わたしは、他人と理解しあえると信じているよ。信じることは、考えることをやめることなんだけど、ある線を超えたら、信じることしかできないと思ってる。わたしがわたしであることは、誰もが信じてることで、それは信じる以外にありえないことでしょ。だって、あなたがあなたでいることの確たる証拠を持ってる人なんていないんだから。だから、信じることは悪くないって、最近は、思えるようになった。
【2004年5月4日(火)】
どうもこんにちは。
GWで休暇中です。今日はこれからコナンくんの映画を観てきます。家族サービスです。
今日は、理解は物語、という話と、理解と気づきは関係無く起こるって話をしようと思っています。
理解とは、物語である。ある事象を、誰かが理解しようとする時、その誰かはまず、因果関係を気にすると思う。その事象はなんで起こったのか?そして、これこれこういうわけで、この事象は起こっていた、ということが判明すると、安心する。そう、安心するのである。
人にとって、自分以外の世界は脅威である。だから、安心したいのだ。その時にその事象を自らの中に取り込むために、人は、その事象についての物語を作る。物語って書くとどうしても、小説とか映画みたいに思われてしまうかもしれないけど、これこれこういうわけでこんな風になったのだ、という理解の形は、それはまさに、「ものがたり」だとわたしは思うのである。
そして、自分なりの「ファンタジー」を作って、人はその中で生きている。自分の精神の安心のために。それがあまりに、外の世界とかけ離れてしまうと、妄想とか、そういうのになって、ヤバイ人になってしまうのだろうけど、レベルの差こそあれ、人は自分の「ファンタジー」を作ってその中で生きている。
ある程度のファンタジーを作る事ができなければ、(ファンタジーといっても、その人なりの世界との秩序と思っていただきたい。魔物や剣が登場するという意味ではない。)精神衛生上、あまりよいことにならない。ファンタジーを作っていかなければ、よほど、強い精神力を持っていないと、人はやっていけないのである。
で、理解と気づきの話。世の中には、面白い人がいるのだ。理解はないんだけど、ぽーーーんと気づいてしまっている人。それの原因とか因果関係とか、その人なりのファンタジーを全く作成していない状態で、それでもなぜか、核心にだけ、気づいてしまっている人。話を聞いたら、なぜか、気づいているのだ。ファンタジーは作成しないで、その事実だけに、気づいている。まるのまま、それを抱えながら、まったく、気にしていない人。そんな人が世の中にはいる。とても強い人か、他人と理解しあわなくても全然平気な人なんだろうな。
わたしには、無理である。わたしは、死ぬまで、人と理解しあうことをあきらめないから。多分。
【2004年4月14日(水)】
どうもこんばんは。
今日は、理解とは希望という話をしようと思う。
わたしは、基本的に人と人なんて、所詮理解しあえない、と思っている。お互いの認識の近似値のすりあわせをしながら、他の人間と一緒に生きている気になっているだけと思っている。
で、この間、何かの本?マンガ?映画?で、「理解とは希望のことである」という言いまわしを聞いて、なるほど、と思った次第。
そう、人が他人のことを理解した、と思っていても、実は、その人にとって、その他人を理解したいようにしか理解していないのだ。その人のあってほしいように、他人を理解しているつもりなだけである。その理解したイメージは、理解された人とは、関係ない姿なのだ。理解したつもりの人のイメージなだけで、理解された人の本人のイメージとはまた違うものなのだ。
結局。人は自分のわかりたいようにしかわかれない。自分のレベルを超えることは理解できないのだ。自分のわかる範囲でしか、わかれない。気づくまでは。気づくってことは大事なことだ。気づくことっていうのは、実は、その人のすごく身近にずっとあることなのである。あとは、その人がそこにそれがあることに気づくだけ。でも、その人は、自分の理解したいようにしか、自分の希望の通りにしか、あってほしいようにしか、認識できない。だから、そこにあるもの、そのものの姿には気づかない。気づく時っていうのは、無心の時におこる現象だと思う。その人の中に、「こうあってほしい」っていう気持ちがなくなった時に、初めて見える姿。それが、気づきだと思う。
わたしは、手塚治虫の作品が大好きである。今、アニメで火の鳥を放送してるんだよね。火の鳥、大好きなんである。もう大好き。だって、わたしの結婚したい理想の男の人ってブラックジャックなんですよ(*^-^*)
Yくんのことを書いたら、本人にスゴク喜ばれた(笑)ので、もう1回いじってみる。Yくん、今度、桂小五郎もってきてね(笑)
【2004年4月6日(火)】
そんなわけで、またまた更新してみようと気が向いたのでまた更新してみます。見に来ている人はいらっしゃるんでしょうかね?
まあ、結局は、なにをいっても自己満足の文章でしかないので、ただただ気のおもむくままに書いてみる。
というわけで、本日は、我が家の可愛い一人娘、ゆうきさんのお誕生日です。お誕生日、おめでとう!ゆうきさん。あなたは、今日で10歳になりました。
ていうか、10歳の子どもを持つ親として、もっと落ち着けよ、自分。って、感じです。どちらかというと、うちの家族構成って、父、母、娘、っていうよりは、父、姉、妹、って感じで、お父さんとでっかい娘とちっさい娘って構成になってるんですよ。精神的に。
ちょっといろいろ事情があって、うちの夫のことを今後は、「隊長」って呼びたいんですが、うちの隊長は、本当に立派な人物なので、大きい娘(わたし!(苦笑)も小さい娘も、彼一人で育てているようなもんです。ていうか、まだ育ってなかったのかよ!ってつっこんでいる人がいるかもしれませんね(笑)
ほかに今夢中になっていることは、新選組です。まあ、ベタな話なんですが、大河ドラマを見ているから、という単純な理由です。でも、その前に、QEDシリーズの坂本龍馬のを読んだから、ちょっと気分が幕末モードだったせいもあると思います。で、新選組のフィギュアを集めています。集めているっていうか、Y氏がくれるんですが(笑)いつもありがとうございます。Yくん。
そんなわけで、気分は幕末モードでもあります。
とかいいつつも、大河ドラマ以上になにかを調べたりしてるわけではないんですがね(^_^;
そういえば、最近、カメラつき携帯を買いまして。カメラついてるからって何をするんだい、とみなさんは思うかもしれませんが。いま、この辺の美味しいラーメンを食べにいくことに凝っていまして、ラーメンの写真をこつこつ撮っています。携帯のラーメンフォルダに、ラーメンの写真がどんどん増えていくのは結構楽しいですよ。機会があったら、美味しいラーメンでも紹介してみようかな。そんなページだったことは、かつて、なかったことですがね(笑)
【2004年4月4日(日)】
どうもおひさしぶりです。下記の日記は、どうも2003年の文章のようですね。1年近くもほっといてあったようですね。
わたしは、毎日何をしているかというと、まったく、わたしとは思えないことですが、仕事ばかりしている毎日です。まったく、夫を主夫に仕立て上げ、働きづめの毎日です。まったく、家族はかえりみていません。楽しみは、家に帰って呑むビールだけ、という、働く以外に楽しみのないオヤジのようになってしまっているわけです。
ワーカホリック、っていうのは、こういう状態の事をいうのかもしれません。よくもまあ、こんなに仕事ばかりしていると、昔のわたしだったらあきれるだろうと思います。しかし、正直に申し上げて、仕事が面白いんですね。仕事が面白いなんて信じられないことだけど、まさに、仕事が面白くなっている今日このごろです。
というわけで、近況はこんな感じです。
最近、こころが動いたことは、イノセンスですね。やっぱり。先日、映画を観に行ったんですが、もう、トリコになっちゃいました。ちゃんと、イノセンス行く前に、攻殻機動隊を観たんですよ。これが!なんで、もっと早く観ておかなかったのか!って後悔するくらい、すごいアニメでしたね。もう観た直後はショックで震えてしまいました。攻殻機動隊は、すごいアニメです。
まず、観た瞬間に、マトリクスに似ていることにびっくりしましたね。マトリクスのほうが後に作られているんだから、これに影響された事は明白ですね。ていうか、攻殻機動隊を観て、インスパイアされない人とは、親友にはなれないかもしれないと思いました。まあ、それはいいんですけど、本当にすごいアニメです。まず、そのマトリクスとの類似点に驚き、その情報量に驚きました。せりふを聞きとって、理解するためには、あと最低2回は見なくちゃいけないと思いました。
それくらい、感動しました。
攻殻機動隊で一番こころに残ったのは、やっぱり、素子がダイビングしてボートに戻ってきた後に、バトーに言うせりふですね。義体をこらした素子でなくとも、誰しも、同じことを不安に思うと思うんです。ていうか、わたしをわたしたらしめていることのなんと脆弱なことか。人はもっと、不安に思うべきなんです。でも、人は、どっかりと、自分にあぐらをかいている。わたしは、わたしでしかないんだと。そんな人は、簡単にハッキングされちゃうんでしょうね。わたしがわたしであることに、なんの疑念も抱かない人は。現在の「わたし」しか、わたしでなくて、記憶の自分は、単なる記憶でしかないことに気づいていない人は。結局、思い出なんてものは、その人に都合よく組み立てられた物語でしかないんです。それは、物語になった時点で、本当にあったこととは、あんまり関係なくなっていて、その人がそうあってほしい、っていう希望にしかなってないんですけどね。でも思い出はその人のよりどころになっていて、その人を支えるものになってしまう。その人を構成するものになってしまう。その人がその人であるよりどころになってしまう。本当はその人が勝手に作った物語を覚えているだけに過ぎないのに。思い出にひたっちゃだめなんですよ。ね。
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1998-2005 (c) Yoshimoto