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月に1回の更新になってるなぁ。
【2007年7月22日(日)】
そんなわけで、今日は娘の話をしようと思う。(でも最近はこの日記の存在を知ってるからこんなことを書いてるところを見つかったらすごく怒られそうだ…)
娘は今年、中学に入学した。そして、なんと、剣道部に入部したのである。長く生きてくると、自分が思わなかったような出来事がいろいろ起こるが、その中でもとっておきのおどろき。まさか、自分の娘が剣道部に入るとは予想もしなかった。
一番最初は、美術部に入る、とか言っていた。わたしは、むしろ、中学のように、自分の中に思春期というおそろしい魔物が育ってきて、自分にもわからない、黒くどろどろした感情がうずまくような年頃は、むしろ、運動をしたほうがいいのでは、と思っていた。まさに、健全な肉体に健全な精神は宿るのである。だから、美術部かぁ…と思っていた。すると、しばらくして、テニス部に入ると言い出した。まさか自分の娘がテニス部に、、、とこれもびっくりして、何年来のふるい友人に、「えっ、○○○ー(わたしの呼び名)の娘がテニス部?にあわな〜〜〜い」などと笑われる様子が真っ先に心に浮かんだ。うーん、テニスかぁ…これも、わたし的には、ちと微妙だった。でも運動部だから、まだ、美術部よりもアリだな、と思っていた。もちろん、わたしの部活ではないので、そんなことは、本人には言わない。
そして、ある日、娘は、「剣道部に入る」と言い出した。剣道部!最初は驚いたけど、考えれば考えるほど、なんとなくしっくりくる。なんとなく、娘には剣道部が似合っている。自然と自分に合うものを探し出してくるものである。そんなわけで、娘は剣道部に入部した。
それにしても、中学生の親も大変である。休みの日には県体のような試合とかがあって、体育館に送ってくれ、などといってくる。昨日も、朝6時に起きて、弁当をつくり、女子中学生を3人、体育館に迎えに行ったりした。先輩の必勝祈願の千羽鶴を折るのまで、深夜まで、手伝わされる。ちょっと大変である。まあ、しょうがない。部活を一生懸命がんばっている姿を見ていると、ちょっと感動するのだ。先輩のために鶴をいっしょけんめい、折っていて、わたしが眠くて先に寝てしまったあとでも、すごいがんばって、鶴に糸を通してあったのを、朝起きて見た時には、ちょっとじん、とした。寝ちゃってごめんなさい。と娘の寝顔にあやまった。
そんな感じで、普段の生活ぶりからは想像もできないほど、剣道には打ち込んでいる娘を見ていると、できる限り、協力してあげないと、と思う。
勉強ももちろん、大事なんだけど、なにかひとつ、集中して打ちこめるものがあるっていうのは、思春期の若者にとって、すごく大事なことだと思うのである。
娘が中学に入って、3ヶ月くらいがたとうとしているけど、やはり、13歳ともなると、もう子どもではないと思う。かといって、間違いなく大人ではない。子どもと大人の中間。まさにその状態だ。だから、こころの成長がすごく激しい。自我は確実に芽生えているし、自分の意志をつらぬく行動力もだいぶん、備わってきている。自分なりの世界も持っている。昔なら嫁に行ったりする年頃だが、確かにこの年なら、嫁に行ける。
中学生って、思春期の人間て、ほんと、難しいね。多分ちょっとしたことでもすごく傷つくんだろうし。もちろん、傷つかない人間なんかいないけど、この頃は一生ひきずる傷になる可能性もあるからね。気をつけないとね。
最近、図書館で本を借りている。きっかけは、守り人シリーズ。この本、まだ単行本しか出ていなくて(『精霊の守り人』だけは、文庫本で出ているけど)、読破するためには、全巻単行本で買うか、図書館で借りるか、しか選択肢がない。自宅の本棚は、もう本があふれてきており、これ以上、増殖させるわけにはいかないので、現在はなるべく文庫本しか買わないようにしているという事情もあり、図書館で借りることにしたのである。
【2007年6月10日(日)】
市の図書館は、なかなか便利。ネットで借りたい本を検索して予約すると、貸し出し可能になったら携帯にメールで知らせてくれる。図書館に行くのは借りにいくときの1回だけですむ。
それにしても、守り人シリーズの予約順番がすごいのである。今、人気あるからすぐ借りられないだろうなと覚悟はしていたけど、一番予約待ちが多かった巻なんて、順番待ち28番目だったよ。1人2週間借りるとしたら、単純に考えて、28×2週間の待ちである。長い・・・。もちろん、もちろん数冊あるわけだから、そこまでいかないだろうけど。でも、そんなに空いたら、前のお話忘れちゃいそうだよね。
しかし、なんとか、『天と地の守り人』第二部まで読みました!あとは、『天と地の守り人』第三部だけ。これで最終巻なので、読み終わったら、とうとう物語が終わってしまうのである。早く読みたいような読み終わってしまうのがもったいないようなどきどきした気持ちで、図書館から、予約の本を取りに来てくださいメールが来るのを待っているのである。
これは、図書館で借りて読んだからこその醍醐味かな。自分で買って読んでたら、本を買って1週間以内には、一気に読み終えちゃってただろう。今回は、守り人シリーズに出会って、数ヶ月くらいかかってじっくり読んでいるから、バルサとチャグム(守り人シリーズに出てくる登場人物)たちが、いつまでもわたしの中から出ていかないのだ。あー早く、順番こないかな。いま、予約待ち、3番目なんだよ。だからもうすぐなのだ。
そんなわけで、図書館で本を借りるようになったから、いままで、文庫本になっていなかったから読むのを我慢していた本を借りて読んでいる。それで、結構、話題になってた本を読んだのである。(自分の中で話題になったという意味だけど)
なんかねー、わたし、読み始めたら絶対全部読みとおすことにしてるのだけど、読み進めるのがちょっとつらかった。
一緒に借りて読んだ『毒草師』(高田崇史著)とかは一気に読んでしまったけど、もう1冊のほうは、すごい何日もかけて、なんとか読み終えたのである。
なんていうのか、、、最近、読み進めるのが気持ちよくない本が多いような気がする。ちょっとばかり、グロテスクすぎっていうのかな。
わたしは、別に、グロテスクなミステリをまったく読めないわけではない。牧野修とかすごい好きである。グロテスクさでいうなら、牧野修の文章のほうが、文章直視できないくらい気持ち悪いと思う。乙一のGOTHも読んだし。だから、とことん、グロテスクで血みどろでぬらぬらしてるのは平気だ。でも、わたしの読んだのは、なんか、気持ち悪い。
たとえば、サドの小説って読んだことありますか。サドの小説ってすごいんです。思いつく限りのいやらしいことを書き尽くしているのだけど、なんていうか、すがすがしいのである。気品さえ漂う。気持ち悪くならない。なんか、多分、書いている本人にあるのは、いやらしさへの探求心しかないんじゃないだろうか?と思うくらい、淡々と、文章が続いていく。そうすると、読んでいるこちらも、いやらしい、と思う心が消えて純粋な気持ちで読めてしまう。
牧野修のグロテスクな文章もそんな感じ。血が流れて肉がとびちるようなシーンでも、なんともいえない気品があるのだ。
でもねーわたしの読んだ本は、おなじ感じで血とか気持ち悪さとか出してるんだけど、読めば読むほど気持ち悪くなる。まるで、化学調味料みたいな感じで。牧野修が化学調味料を一切いれない、本格派のラーメンとすれば、一方は、化学調味料がいっぱい入ったラーメン。一口目の味にはインパクトがあるけど、食べすすめると、インスタントみたいな味になっていく。食べ終えた後はやたらとのどが乾いて、いやな味だけが口に残る。
あんなのもうよまないや。
でもこんなに悪口書いたから、本の名前は書かないでおこうと思う。
最近、本当に思うけど、趣味は人それぞれ。そこもラーメンと同じ。わたしにとっては、なんでそんなの美味しいかな?って思うラーメンを、すごく美味しい!といって喜んで食べる人もいれば、わたしにとって、ものすごく美味しくて、これはいまのところ、この辺で一番のラーメンだ!って思うラーメンを、けなしている人もいるし。その人にとって、最高の味を、自分で見つければいいだけのこと。誰にとっても同じ味に感じられるラーメンなんかない。美味しさを感じることは、個人的な体験なのだから、誰かと共有できるものではない。自分にとって美味しくても、誰かにとって美味しいとは限らない。
ミステリも同じ。わたしにとって、最高に面白くても、誰かにとって面白いとは限らない。みんなが、これは面白い!とほめたたえても、わたしにとっては、全然面白くなくて気持ち悪いこともある。
ここのところをわかっていないと、前提がくずれるんだなぁと、前から分かっているんだけど、本当に最近ひしひしと感じます。
今日は、『獣の奏者』のリアルな部分について、自分なりに考えたことを書いてみようと思う。(なぜなら、リアルなファンタジーという謳い文句だったから。いくら、本を売るためだからとはいえ、納得のいかない売り文句って腹が立ちます)
【2007年4月20日(金)】
獣の奏者のリアルな記載の部分というのはいろいろあるけど、わたしとしてもっともリアルと思われるのは主人公エリンが、傷ついた幼い王獣リランをじっと観察し、試行錯誤を繰り返して 最終的には、王獣の心を開き、コミュニケーションをとることに成功するくだりではないだろうか。
主人公エリンは、野生の王獣を観察したことがある。この経験を生かし、目の前にいる心に傷を負った幼い王獣リランとコミュニケーションをとる方法を考察する。この考察の流れ、結論に至る過程に関してとても丁寧に描かれていると思うのだ。
たとえば、リランは光におびえているため、リランの住んでいる小屋は、光を一切さえぎっているが、それでは何も見えないので、屋根にほそい隙間を作り、上から、光が差している状態となっていた。しかし、エリンは、野生の王獣のひなは、親に身体をかかえてもらっているため、光は上からは差さずに、下から差すことになることを思い出し、下からの光であればおびえないのではないか、と考える。この推測は、見事に的中し、上からの光をおびえていたリランも、下からの光にはまったくおびえなかったのだ。
このように、野生の王獣の観察結果を思い出し、その結果からいろいろな事例を抽出し、リランに対して、試してみる。だめだった場合、その原因について考察し、その改善策を検討し、次の作戦を立てる。この過程は、おそらくは、文化人類学の学者としての作者が、現実に研究の中で行っている過程ではないだろうか。それなら、エリンの細かい考察がリアルなのもうなづけるというものだ。
というわけで、上橋菜穂子の本を読み始めているわけである。
最近読んだのは『弧笛のかなた』。話自体は、ファンタジーというよりは、伊賀忍法帖みたいな雰囲気があるのでは、と思ったのはわたしだけだろうか。
まあ、伊賀忍法帖は、キャラが立っているのでどちらかというとアメリカンヒーローコミックみたいなゴレンジャーみたいなそういう感じなので、厳密にいうと全然違うと思うけどストーリー展開とか文章の流れとかは、山田風太郎に近いものを感じるのはわたしだけだろうか?
上橋菜穂子の特徴は、本を読むにつれて、本を閉じることを忘れるほどストーリィにのめりこんでしまうことである。つまり、先の展開が読めないし、伏線も生きてるし要は上質のミステリ要素があるということだ。山田風太郎の小説とかも読み始めたら最後まで一気に読んでしまう(のはわたしだけだろうか)。
でも、わたしにとって、ファンタジーに必要な要素って、そういう要素ではない。
もちろん、そういう要素があったほうが、読み物として面白くなる。読書はそういう楽しみを満たす一面もあるから、必要な要素ではある。でもそれだけを満たしていても、ファンタジーとはわたしは思えない。
ファンタジーに必要なのは、主人公が、この世を越えた「何か」と接点を持ち、その接点を持ったことにより自分の魂をさらに成長させることじゃないかと思う。または、主人公だけでなく、読者自身も、なにかに触れることにより、癒されるのである。物語を読んで、わたし自身も、自分の中でかかえている「何か」と触れることができるというわけである。
最近は、図書館に通って、守り人シリーズを読み漁っています。獣の奏者よりも、守り人シリーズのほうが面白いんじゃないだろうか?
やはり思うのは、荻原規子、小野不由美、上橋菜穂子のファンタジー三羽鴉のうち、上橋菜穂子は、一番エンタテインメント性が高いということ。この3人の作品なら、一番映画化してもうかりそうなのは、上橋菜穂子の作品だと思う。逆にもっとも、個人的な感情、個人的な魂にふれることができるのが勾玉シリーズ。それぞれの持ち味があるわけで。ここは好みが分かれるとこだろうね。
とりあえず、いまは、バルサ漬けの毎日です。
『最強ラーメン攻略本』という本を購入しました。そこで、これに記載されているラーメン屋さんを全制覇したいな、という欲望がふつふつとわきおこりまして、最近、今まで行ったことのなかった ラーメン屋さんを中心に、でかけることにしています。
【2007年3月13日(火)】
基本的には、土日のお昼ご飯にしか、ラーメン食べに行かないので、週末に最高で2件しか回れないのです。しかもその合間に、定期的に食べに行ってるお気に入りのラーメン屋さんにも行かないといけないのでなかなか全制覇までの道のりは遠いのでした。(食べにいかないといけないことはないよな…)
そんなわけで、先週末も、いつものように行ったことのないラーメン屋さんに出かけていったわけなのですが、そのお店には、なんと、「カメラ禁」と貼り紙してあったのです。
わたしは、いままで、ラーメン屋さんにでかけたら、必ずといっていいほど、注文したラーメンの写真を撮ってきたのです。なので、今回初めて、ラーメンの写真を撮ることができませんでした…。
ものすごく残念。ものすごく不満。
ちなみに、ためたラーメン写真はどうするかというと、自分の携帯に保存しておいてたまにながめてにやにやする、という、水着のお姉さんの写真をたくさん携帯に保存しているおじさんとなんら変わらない行動をとっています。
それにしても、なぜ、「カメラ禁」なのだろう。
わたしは、ブログに写真を載せたりするわけじゃなし、自分の携帯にカメラ日記のような形で保存しておくだけなのに、ほんとにただの思い出なのに、それでも撮影できないのかなぁ、と非常に不満でした。
もちろん、自分の作るラーメンは、ある意味「作品」だし、その作品を無許可でどんどん撮影されて勝手に公開されたら作ってる立場としては面白くないかもしれません。自分でコントロールできない映像を勝手に流されるのはいやかもしれません。
その気持ちはわかるけど、でも、やっぱり不満。
ラーメン自体は美味しいし、お店の雰囲気もよかったのですけどもうそれだけで、そのお店には、マイナスイメージを持ってしまいました。まあ、そのお店から見たら、それくらいで来る気なくすんだったら、別にもう来なくてもいいですよ、って思われるだけだと思うけど。
それくらい、「カメラ禁」ていう貼り紙は、わたしの心をブルーにさせたのでした。
それにしても、ラーメンの写真を撮り始めて思うのですが、美味しそうに撮るのってなかなか難しいですよね。納得のいく写真が撮れることは、あまりないです。でも、何度も撮り直してると、あやしい人に見えるし、何よりラーメンがのびてしまうので、そんなに何度も撮り直しはしません。このため、ますます、納得のいくラーメン写真は、たまにしか撮れないのです。
ラーメンて、華のあるラーメンとそうでないラーメンがあるのです。
写真を撮っていると、美味しいというだけでなく、見た目の華やかさも気になるポイントだったりします。携帯で写真を撮った後、気に入ったらしばらくは、待ち受け画像に設定しておくのですが、 選ぶのは、美味しかったラーメンというよりも、撮影のうまくいった美味しそうにみえる、華のあるラーメンを選んでしまいます。華のないラーメンを、いかに美味しそうに撮るかっていうのを、結構がんばっているつもりなんだけどなかなか難しいです。
華のあるラーメンとそうでないラーメンの違いは何かというと、ひとつは、トッピングの色の鮮やかさにあると思います。味玉子の黄身(半分に切れていることが必要)、青菜(もしくはねぎ)の緑。チャーシューのピンク。スープからほんのり透けてみえる薄黄色の麺。きくらげの黒。とんこつの紅しょうが。などなどの色合いにより、華やかに見えるというのがひとつ。
汁が多くて麺がほんのり見えないラーメンは、なんとなく美味しそうな要素が減るのです(気のせい?)(でも自分が食べるときはスープ少ないと不満なんだけど)
もうひとつは、きらめきです。光の反射による輝きとでもいいましょうか。これは、そのお店の証明具合にもよるのですが、反射するポイントが多ければ多いほどきらめきが多くなるので美味しそうに撮れる確率が高いです。スープの表面がきらきら光るのはもちろん、そのほかにも半分に切れている玉子の半熟の黄身が反射するとか(特に透き通った黄身やトロリとたれそうなくらいゆるい黄身は美味しそうに撮れる)、反射ポイントはいくつかあってそれが全部光を放ったときに、すごく美味しそうに見えるんじゃないかと思っています。(あたりまえですか?)
以前、テレビで、美人の条件みたいなのをいろいろ特集してたのですがたとえば、大きな目、白い歯、うるうるとした唇といったものが美しく見えるのはそこに光が反射して、きらりと輝くから、らしいです。
なぜ、光が反射するのが美しく見えるよう、人はプログラムされているかというと、光の反射=水であり、要するに、人は水を求めていることが理由なのではないか、ということでした。
人間には水は不可欠ですからね。
そこを考えるとうまそうに見えるためには、ラーメンのかがやきが重要というのもあながち間違ってないですよね。
つまり、美麺は、かがやきが命(笑)
『獣の奏者』T、U(上橋 菜穂子著)を読んだ。テレビ番組で紹介されていて、その時に出ていたコメンテータが、ナウシカに似ていると言っていたので、どれくらい似てるんだろ?と気になって、早速購入。
【2007年3月10日(土)】
この小説、読み始めると、夢中で読んでしまうので、結構分厚いハードカバーの本なのだけど、すぐ読み終えてしまった。
テレビ番組で紹介されていたときの言葉は、リアルなファンタジーということだったけど、その文章を書いた人って、ファンタジーをどういうものだと思ってるのだろうか?ファンタジーほど、リアリティが必要となるカテゴリもないと、わたしは思うのだが。ファンタジーの作者って、まず世界観から自分で作り上げないといけないし、その世界の文化、社会、風俗なんかも、そりゃ、既存の設定を流用するとは思うけど、ある程度のオリジナリティを出すためには、自分なりの設定を入れていかないといけない。適当な世界では、なんの魅力もなくなる。ということで、かなり、リアリティにはこだわりを持って作品を作らねければならないと思うのだ。そこは、現実社会を舞台にした小説ではその部分てある程度存在するモデルがあってそこを考える苦労が最初から省かれているから、現代を舞台にしたほうが、前提となるところを考える時間は短いと思うのだけど。
あと、ファンタジーには重要とされる、魔法とか、ドラゴンとか、そういった架空の要素を入れるにしても、多分、なんでもかんでもできる設定にしてしまったらどんな読者もひくと思うし、そこには、有効範囲とか発生条件とかのある程度のしばりを設定しないと、物語っておもしろくないと思う。
だから、リアリティというか、すごくいろいろ設定を検討しないと、おもしろいファンタジーってかけないと思うのである。だから、リアルさ、ってファンタジーにはすごく重要です。
大体その「リアルなファンタジー」っていう表現て、魔法を使わない、重要な登場人物??である「獣」の描写が細かいとかそういうことを言ってるんだと思うけど、そういうものをこそ、細かく書くのがファンタジーと、わたしは思ってたんだけどなぁ。どうだろう?
まあ、そのテレビを観て、結局、わたしは『獣の奏者』T・Uを買ってるんだから、放送としては、成功ですね。
小説そのものの話をしていなかった。
『獣の奏者』には、一度読みはじめると、その世界に引きこまれて、かなりぐいぐい読まされてしまうような力がある。
登場人物もとても魅力がある。タイトルにもなっている獣「王獣」「闘蛇」も、なかなかおもしろいと思う。(この名前が王獣だから、王蟲を連想させて、ナウシカっぽいといわれるのだろうか)特に「闘蛇」が、ちょっと他にないイメージだと思った。「蛇」だから。普通は、龍という漢字を使うのではないだろうか。(そんなことないか…)
蛇、という漢字で、その獣を自分の中にインプットしているうちに、どうしても、蛇っぽいイメージになってしまう。蛇というと、なんとなく、アジアテイスト、日本テイストになる。やまたのおろちとか。そうそう、昔から、虹という漢字は、なぜ、虫へんなのだろう?と思っていたのだけど、それは、蛇からきているというご意見を聞いたこともあったし。
確かに面白い小説だけど、でも、日本のファンタジーの金字塔というのはなぁ。雑誌かテレビでみかけた表現なんだけど、わたしとしては、『十二国記』もすごく面白いと思うので、金字塔までいうのもなぁ…、とちょっと思ったりした。
『獣の奏者』の主人公エリンは、人が慣らしてはならない獣である、王獣リランと心を通じさせてしまい、これが、大変な事態を生んでしまう、というあらすじはこんな感じ。
人間の「知りたい」という欲望は、止められないものなのだ。エリンは、ただ、「知りたい」獣の気持ちをわかりたい、という己の感情に従って、大変な技を作り出してしまう。これは、ダイナマイトや原子爆弾を生み出してしまった人だって、同じ気持ちだったんじゃないかと思う。最初は、これはどうなってるんだろう、知りたい、もっと知りたい、っていう純粋な人間の探求心がもとになっているのだけど、その結果、生み出された、すごいチカラを、どう扱うかっていうと、結局、悪人が使うと、果てしなくどんどん悪いほうへ使ってしまうのだ。どう使うのか、っていう使い方を検討するのも勿論、大事なのだ。有効に使えば、すべての人間によい結果をもたらしてくれるのかもしれない。でも、どうしてもどうしようもなく、悪いことに使ってしまう人は、なくならない。歴史をみたら、すぐ分かる。インターネットだってそう。大変に便利なもので、本当に便利なものだけど、これがあることによって、以前には起きなかった種類の犯罪だって増えてしまっているのが現状。性善説という言葉もあるけど、インターネットを悪用する人はいなくならない。
そんなもとになってしまう、すごいチカラを見つけ出してしまうもとになる、人間の好奇心は、本当に、罪ではないのだろうか?そう思いたくもなってしまう。
すごいチカラそのものは、悪でも善でもなんでもなくて、それをどう定義するのかってことなのだろうか。
先日、青森に出張に行ってきました。
【2007年3月1日(木)】
おそらく、出張でもない限りは、青森県に一生行くことなどないだろう、と思っていたので、すごく楽しみにでかけてきました。
やはり、青森でしか食べられないラーメンを食べようと思い、事前にいろいろチェック。そして、予約したホテルからの距離などもいろいろ検討して、結局、「まるかい」というラーメン屋さんで、ラーメンをいただきました。このラーメン屋さんは、現地の人にうかがうと、賛否両論なのだそうだ。すごい老舗らしいのだけど、そして、固定ファンもいるそうなのだけど、味的に、賛否両論。
ホテルから数百メートルの距離だったので、一緒に出かけた会社のみなさんと別れてホテルに戻った後に、早速、歩いて「まるかい」に出発。近くまで歩いていくと、「アスパム」という青森県観光物産館が目に入る。青森県の「A」をモデルにしたという三角の建物に目を奪われ、携帯のカメラで激写してから、念願のまるかいに入る。
中に入ると、なんとメニューが「ラーメン中、大」しかない。テーブルに着くか着かないかくらいで、お店の人に「ラーメン中?」と聞かれたので、「はい、ラーメン中」と答える。
しばらくして出てきたラーメンは、チャーシューとねぎののった普通の醤油ラーメン。早速麺を食べると、この麺がすごく変わっている。色が白くて、麺がむちむちしているのだ。普通、ラーメンの麺て、黄色いじゃないですか。ここの麺は、白くてむちむちしていて変わった歯ざわり。家に戻ってから、よくみてみると、かん水を使わない独特の麺ということで、すごく納得でした。スープは、後味がすっぱいくらいの煮干の風味。好き嫌いが分かれるといわれつつも、わたしにとっては、おいしい青森ラーメンでした。
あと滞在中、もう1件、連れて行ってもらったのが、山つじいといわれる辻井食堂というラーメン屋さん。これも、醤油味のスープに極細麺が非常に美味しいラーメンでした。
それにしても、青森県は、全体的に、味が濃いですね。料理ひとつひとつの塩分が濃いです。ラーメンにしても、青森県では、比較的あっさりと聞いた山つじいのラーメンでも、わたしにとっては、しっかり醤油味だったのである。青森県人の方に、金沢の亀次郎を食べてもらったら、あのあっさり具合にびっくりするかもしれないなと思いました。
こちらにもなかなかいろいろ美味しいラーメン屋さんがありますよ。
それにしても、青森県に行ってみて、一番、興味をひかれたのが、善知烏神社です。わたし、最近の趣味は神社めぐりなのですけど、青森出かけたときも、夜、一人でふらふらと散歩していたら、ふと目の前に神社があらわれまして。思わずお参りしてしまいましたが。善知烏神社は、青森市で一番大きな神社らしいです。読み方は、「うとう」じんじゃと読むらしいです。
そんなわけで、大好きな神社もラーメン屋さんも出かける事ができて、大変楽しい青森出張でした。
今日は、昨夜のおかずのカレーがあまっており、また、先日買った牡蠣の期限が切れそうだったので、初めて、牡蠣カレーを作ってみた。
【2007年2月13日(火)】
バターで軽くソテーした牡蠣(醤油風味)をあまったカレーに入れさっと煮たもの。辛口のカレーのほうがあうみたいなので、ちょっと辛口のカレーをたしてみた。なかなかおいしいので、今度また作ってみようと思う。
最近、すごく、牡蠣が好きで、家で牡蠣を料理したいと思っていろいろ試してみているけど、かきのホワイトソース煮こみみたいのが一番合うかなあと思っていたが、かきカレーもなかなかいける。カレーの辛さが、かきの味にあうみたい。
多分、一番、メジャーなレシピは、牡蠣フライに鍋だと思うけど、フライはちょっと…って感じだし、鍋は3人家族にはなかなか大変なのだ。
ベルギービール、DUVELがおいしいと書いたけど、ヒューガルデンホワイトもすごくおいしいのである。日本人に向いている味と思う。
週末、ベルギービールが、いろいろおいてある酒屋(いろいろ探してやっと見つけた酒屋なのである!)に、ビールを買いに行ったら、DUVELはあったけど、ヒューガルデンのホワイトだけなかったのだ(残念)今度また買わないと。
ホワイトはすごく飲みやすいけど、すごく美味しい。さわやかである。DUVELは、苦いけどすごくおいしい。オルヴァルという銘柄も飲んでみたけど、これは、玄人の味。上級者向けって感じで、まだ、わたしには早すぎた。もっとじっくり、いろいろ勉強してからだな、と思った。
ところで、近所に、ベルギービールが売ってる酒屋って本当にないのである。何軒か回ったけど、本当になかった。輸入ビールコーナがあっても、ギネスか、ベルギービールでもシメイくらいしかない。
本当にあきらめかけたとき、その酒屋を見つけたのだ。ここには、なんと、ベルギービールの銘柄のグラスまでちゃんとそろっていたのだ。なんてすてきなお店だろうと思った。しかも、ちゃんと流行っていて、お客さんもそこそこ来ている。ちゃんとやっていれば、ちゃんと評価してくれる人は来てくれるんだなって思ってすごくうれしくなった。だからベルギービールは絶対そこで買うことにするのだ。今週末は、ヒューガルデンのホワイトが入ってくれてるといいな。
「どろろ」を観てきました。原作をちゃんと読み返してから出かけました。
【2007年2月12日(月)】
設定が同じの別作品だと思えば別になんともないと思う。アクションもの、ですよね。
映画を観る前に、いろいろ見ていたら、柴咲コウのどろろに対して、辛口批評とかがあった。
確かに、原作のどろろは、女の子っぽさを感じさせないのに、柴咲コウさんは、初めかられっきとした美しい女性にしか見えなくて、その辺が最初は気にはなったけど、原作と違う設定になっている部分があって、作ったほうも考えていると思ったし、そこはまあいいかなとわたしは思う。
ただ、ちょっと気になったのは、中井貴一というキャスティング。最近の日本映画(特に伝奇?もの)では、悪役といったら、中井貴一か、椎名桔平か、真田裕之のような気がする。特に今日のどろろは、陰陽師とかぶるところが多かったような…。琵琶のフレーズとか。中井貴一とか。その辺がちょっと残念だった。もっと他に俳優いないのかなぁ。悪役でちょっと雰囲気のある俳優となったら、椎名桔平が使われる確立すごく高くないだろうか。わたしは椎名桔平のファンであるし、すばらしいと思う。俳優のせいではなくて、安易なキャスティングのほうが、なんかいやだな、と思うわけである。周りはベテランでかためるっていうのはしょうがないのかもしれないけど、なんか見たことある感じがして面白くない。
ところで、なぜ、人はアクション映画を観るのかと思う。
わたしは映画は感情を増幅させて普段は表現できないいろいろな感情を、観客に感じさせてくれる装置ではないかと思っている。
アクションモノには、感情は特に表現されていないのではないか、と思う。特にアクションものとして優れれば優れるほど、アクションのキレ、美しさ、などに重点がおかれ、主人公のキャラクタでさえ、特に表現されなくてもいいくらいになってるケースもあるのではないかと思う。
この場合、わたしの思う映画の定義では、人が映画を観る理由は説明できない。なぜなら、アクションもので、観客が普段は感じられない感情を感じることはできないんじゃないかと思うからだ。
なんでアクション映画を観てしまうんだろう。
ところで、この話はまだ考え中なので特に結論はない。
最近ベルギービールを飲み始めた。といっても、まだまだ全然ビギナー。最近気に入ったのはDUVEL。苦くてすごく美味しい。ベルギービールによく合うおつまみを研究したいな、と思う今日この頃。
こんな日記を見ている人がいるかどうかわかりませんが…。
【2007年1月31日(水)】
更新してみようと突然思い立ったので更新してみるわけです。
最近は本当にネットと離れた生活をしていますね。最近の趣味は、ラーメン屋さんめぐり、銭湯めぐり、岩盤浴、溶岩浴、川ウォーキング…。もっとも、冬は、寒くてウォーキングしていませんが、昨年の夏から秋にかけては、本当にいろいろ歩きました。歩いている間は、いろいろなことを考えたり、無の境地だったり、川の鴨たちを見たり、、、すごく楽しいです。岩盤浴もなかなか楽しいです。汗がとにかくいっぱいでるんです。その汗はさらさらでとても保湿効果が高いので、岩盤浴のあとは、しばらく、お肌がつるっつるになります。一時的なものなのですが…。
読書は、最近は、今邑彩の本に夢中でした。でも、この作家の本は、いま、まったく手に入りません!ほとんど絶版。古本屋さんとかで探しても、ほんとにないんです。どこかにないかなぁ。なんかすごく面白いんですよ。この作家さんは、読者の気持ちが手に取るようにわかるみたいで、読み進めるとほんとに、いいようにもてあそばれてる感じです。しかも読みやすい文章なので、一気に読めちゃいます。最近、年をとったせいか、難しい文章が読めなくて(^_^;)、このような平易な文章はすごく読みやすくてはまってしまいました。
お風呂は本当に最近はまってますね。
天然とかも大事なんですけど、熱い風呂にしみじみとつかると、本当に幸せなんです。ほんと、いま、自分の趣味を読みかえしたら、おやじそのものの趣味ですね!!
さゆりさん、よかったら、ブログのアドレス教えてくださいね。遊びに行きますから。
この文章を書くために、更新したようなもんですかね(^_^;)
映画「ハリー・ポッターと炎のゴブレット」を観に行った。うちの娘さんは、小学校5年生だが、字幕スーパーを観たいという。ダニエル・ラドクリフくんの肉声を聞きたいからだそうだ。娘ながら素晴らしい判断と思う。
【2005年12月14日(水)】
映画のほうは、やはり、原作が分厚くなってきたせいか、どうしても時間の枠にしばられて、全体の印象が薄いと思う。シーン、シーンの印象とかそういうのより、全体の話を客に理解させるほうを優先しているような気がする。だから全体的に、小説を映像化した説明みたいなのになってる気がしてならない。ハリーの初恋、といううたい文句の割には、特に掘り下げて恋愛を描いているわけでもないし。最後の対決シーンとかも、なんかよくわからない仕上がりのような気がする。大衆の娯楽作品なのだから、それもしょうがないことかもしれない。
なにより、腹が立ったのは、他のお客。特にわたしの前に座った女!映画中は、携帯をあけるな!しかも、電話かかってきて、でてるんじゃないよ!ばかじゃないの!映画を観てる時は、携帯を切れ!
うちの会社では、人事、経理、その他会社のお知らせ事項を、社内ポータルサイトにて通知している。そこには、普通のお知らせに混じって、落し物のお知らせも掲示される。
【2005年12月3日(土)】
ある程度の人数の人間が入っている建物なので、みんないろいろなものを落としていく。時々、なんでそんなのを落とした?ってシチュエーションを考えるのが楽しい落し物もあったりするんで、ひそかに落し物のお知らせは熟読してしまう。また、落し物の通知文章を書く人は、結構きちんとモノを説明してあるので、じっくり読むと割りと楽しい。たとえば、キーホルダーの落し物の時は、ちゃんとハム太郎とリボンちゃんのキーホルダー、とか、キャラクターの名前まで書いてある。ハム太郎ならまだしも、リボンちゃんとか普通でてこないよなぁって思う。
この間、お!って思った落し物は、お守り。落としてるくらいだから、なんかその人、守られてないよなーーて思った。落としてるくらいだから、粗末にしてるし、しょうがないのかもしれない。
あとは、ジャンパーとか。それは、本当に落としたのか?ってちょっと思う。脱いでおいてあっただけなのに、誰かがさっさと回収しただけだったりして、とか。あとからっぽの弁当箱とかも落とされてた。きっと家に帰って、奥さんとかに「弁当箱は?」って聞かれて「あ!」って落としたことに気づいて、あせったところへ、「替えの弁当箱ないから、明日は弁当なし!」とか言われてこづかいからパンを買ったりしないといけなくなったりしたかな、とか妄想がふくらむ(笑)
こんな感じで、よく自分の席で、落し物をチェックした。その後、帰るときに、会社の出入り口においてある落し物の実物を確認していた。あ、本当に弁当箱だ、とか、ハム太郎だ、とか。
実は、最近、本社と違う建物で作業しているので、落し物のチェックはできても、実際のモノが見れなくてさみしい思いをしている。だから、お守りも、どんなお守りなのか実物を見ていない。何のお守りだったのかなぁ。
でも、だからこそ、文章を読んでどんなのだろう、って妄想することがより詳細になったかもしれない。ペンダントトップの落し物の記述をよく読んで、イメージする。ガラスの球状のもの、って書かれてあったら、こんな感じかなあ、、、って想像するのだ。実際に観てしまうよりもこれはこれで楽しいかもしれない(笑)
ネットワークウォークマンを買いました。
【2005年12月1日(木)】
みんなには、いったい、どこで聞くの?などといわれたりしたけど、確かに、今のわたしは、会社と家の往復(たまに本屋かCD屋に寄る)でクルマに乗るくらいで、ウォークマンを聞く機会なんかほとんどないのだけど、でも欲しかったのでいいんである!
それにしても、そのウォークマン、ライターに形がそっくりなので、わたしが持っていたらライターに思われるような気がしてならない・・・。この間も職場の上司と話していたら、たばこの話になって、わたしはたばこ、吸いませんよ、って言ったら、あれ、やめたの?とか言われたし!
そんなわけで、ウォークマンを買って、手持ちのCDを転送して聞いているんである。けっこういい音なので、満足しています。
前にも書いた10歳年下の女の子の話。
年代の違う人と話すといろいろ面白いのでその子とは仲良くしている。なんだかんだとこの前は書いたけど、わたしはその子のことがすごく好きなんである。
その女の子がピアスをあけたんである。そこで、クリスマスプレゼントを欲しがっているその子に何かプレゼントしようと思いたち、使ってないわたしのピアスをあげることにした。使用済みのもので、気が引けたけれど、ほとんど使ってない新品同様のものなら、きれいにふけばあげても大丈夫かなと思ったわけである。
で、昔のピアスとか発掘していろいろ探してみたんだけど、ひとつ、なんでそんなのを買ったのか全然覚えてない、かわいらしいピアスが出てきた。ほんとに、今考えてみれば、わたしは絶対買わないデザインの、可愛らしい小さめのピアスだ。実際、そのピアスはほとんどつけたことがない。買ってすぐに1,2回つけたくらいで、たんすのこやしになっていたピアスだ。でも、わたしの趣味には合わないけれど、デザインとしてはシンプルでかわいらしいのでその子には似合いそうだと思い、それをあげることにした。
実際に、その子に渡したら、ひとめで気に入ってくれたみたいだ。とても喜んでくれた。
それで思ったこと。もしかして、わたしはこのピアスをその子にあげるために、買っておいたのかもしれない、ってこと。運命かもしれないな、なんて、がらにもなく思ったり、した。
テレビが壊れた。つけてしばらく、テレビをたたかないとうつらない。早く新しいテレビを買って欲しいのだが、なかなか買ってくれない。(けち!)しかも、このテレビたたき、家族で一番わたしがへたくそ。夫と娘は、2.3回たたくだけで、ぱっとうつるのだけど、わたしだけは、何度たたいてもうつらない。しょうがないので、娘に頼んでつけてもらう日々。まったく、最近娘の成長がいちじるしく、家族の中で一番役立たずなのは、わたしということになってきた…。
『頭文字D』32巻と『鋼の錬金術師』12巻を買ってきて読む。頭文字Dのほうは、いつもと違う展開があって、今後ちょっと期待?って感じ。それにしても、この頭文字Dを描いてるマンガ家の人って視点がやらしいよね。。。
【2005年11月23日(水)】
あと、今日は「ハリーポッターと賢者の石」を観た。この頃のハリーと比べると、今のハリーはもう立派な青年ですね。びっくり。ロンとかも普通に男の人になりつつあるし。前はちょっとシャイめの男の子だったのに。ハーマイオニーだって普通にお姉さんになっててびっくり。前の時はまだまだ微妙な胸のふくらみだったのに。
でもうちの娘も育ってしまって最近はすっかり女の子になってしまっているから、成長というのはとめられるもんじゃないってことだなあ。
そいえば、今日は、勤労感謝の日である。うちの娘が、日頃の勤労に感謝して、今日の夕食を作ってくれたんである。メニューは、オムライスと玉葱のスープ。味ももちろん、美味しかったのだけど、なによりも、その気持ちが嬉しい。ありがとうね。
10歳くらい年下の女の子と話す機会があった。まあ、この話のポイントとして、年齢はあまり関係ないんだけど。
【2005年11月20日(日)】
彼女は、ついこの間、つきあっていた彼氏と別れたばかりだ。最近は、ちょっと気持ちの切り替えができたみたいで、元気も出てきた。
その子と、もうすぐクリスマスだね、という話をしていた。すると彼女はこういった。「クリスマスプレゼント、誰かわたしにくれませんかねぇ」
もちろん、その子は、ただ、クリスマスプレゼントが欲しいわけではないのだろう。簡単に結論を言えば、クリスマスプレゼントをくれる素敵な彼氏と過ごすクリスマスイブ、というのがほしいわけだ。直接そう、言われてないけど、多分そうなのではないか。
その子に好みのタイプを聞いてみた。「頼れる人がいいです」とその子はいう。
わたしはちょっと違うなぁ。って思った。頼れる男の人がいい、ということは、つまり、その子は男の人に頼りたいってことだ。でも、そんな一方的に頼るっていうのは、わたしは、いい関係を生まないと思うのだ。人間と人間が、二人で一緒にいるってことは、どちらかがどちらかに頼るだけでは、だめじゃないだろうか。お互いにちゃんと自分の足でも立っていられる人間が、それでもお互いに歩み寄って、二人で支えあう。これが、誰かとつきあうってことじゃないのかな、とわたしは思う。
だって、男の人だって、人間だから、誰かに頼りたい時だってある。ていうか、男が頼れるものだ、なんて、わたしはあんまり思ったことがない。頼れるのは自分だけだ、こう思って生きていくのがわたしは正解だと思っている。自分の人生は自分が主役なのだから、日々の選択は、自分で決めなくてはならないのだ。自分の頭で考えなくては意味がないのだ。誰かに頼るってことは、自分で考えるのをやめてるってことだ。
男の人は、女の子に頼ってもらえたほうがそれは嬉しいかもしれないけれど、自分の頭で考えるのをやめている子を、好きになれるものなのだろうか。もし、わたしが男だったなら、それはいやだと思う。自分で決められないような子を好きにならないような気がする。
それで、最近、危険だなぁと思っているのが、テレビ番組の「オーラの泉」という番組だ。この番組では、人間からはオーラが出ていることを前提として話が進む。テレビの出演者がゲストのオーラについて、「あなたのオーラは、シルバーですね、ところどころに金色が見えます」などと、オーラが出ていることがもう当然のことのように語られているのだ。
わたしはあえて、ここでは、オーラが本当に出ているか出ていないかは問題にしない。今言いたいのは、そんな風に、オーラが見えることを当然の結果のように話をされると、みんながそれを信じてしまうっていうことだ。オーラの是非を問わずに、もう自分には何色のオーラが出ているのだろう、ということから始まってしまう。
当然のことながら普通の人にはオーラなんか見えない。色なんか見えない。だのに、誰かに「あなたのオーラは赤色ですよ」って言われてどうして信じられるのだろう?わたしは信じられない。でも、テレビであんな風に言われたら、結構みんな信じちゃうのじゃないかな。それこそ、自分の頭で考えていない人が多いから、無理もないことだ。そういうわけで、最近は危険な世の中だと思う。
『頭文字D』って面白いと思うんである。
【2005年11月12日(土)】
最初は何気なくアニメを観て面白いなあ、と思い、マンガを読み始めて、あまりの面白さに全巻揃えてしまった。
これは、走り屋が改造車に乗ってテクニックで峠をせめる、というマンガだ。(なんかすごいはしょりかただけど・・)たまに登場人物同士で峠でレースしたりする。このバトル(峠の公道で、改造車どうしでレースをすることを、このマンガではバトルというのだ)が始まると、マンガ中の台詞はほとんどなくなって、カーブを曲がるハチロク(主人公の乗っている車種AE86トレノのことをこういうのだ)の様子とか、なかのドライバの顔のアップとか、きゅるるるるっていう音とかしか。でてこなくなってしまって、バトルシーンの多い巻は、あっという間に読み終わってしまったりするのだけど、
これが、意外と、面白い。
『頭文字D』の最初のほうは、主人公藤原拓海の、成長物語という感じなのだ。実家の豆腐屋の手伝いの為にクルマを運転していたせいで、クルマに乗るのが嫌いだった拓海が、偶然にバトルに参加し、走り屋と勝負することで、本当のクルマの面白さに気付き、立派な走り屋に成長していく、というストーリィだ。そして、その後は、高橋涼介という、すごい走り屋と出会い、彼の指導を受けながら、さらに成長していく。この涼介さんという人がほんとにすごいのである。
わたしは、最初の拓海成長編よりは、断然、後半の、プロジェクトDのバトル編のほうが、面白いと思う。
プロジェクトDのバトル編(これは勝手にわたしがつけた名称です)では、高橋涼介が主体となり、プロジェクトDという走り屋チームを作って、他県の峠の走り屋チームにバトルを仕掛けていくのだ。
プロジェクトDは、涼介さんの戦略と藤原拓海と高橋啓介(涼介さんの弟)という二人のドライバによって、他県のチームをどんどん倒していく。この涼介さんの戦略が、毎回毎回、本当に見事なのだ。その峠を読み、相手の戦略を読み、あらゆるパターンをシミュレーションして、戦略を打ち出し、それを二人のドライバにいろいろな方法で伝え、彼の戦略通りに、時には彼の想定以上の力を出す、思考よりも感覚型である二人のドライバがバトル中に覚醒させる未知の能力まで計算に入れて、彼らを指導し、思い通りに彼らを動かし、勝負に勝つのだ。
このプロジェクトリーダぶりって、素晴らしいと思いませんか。
自分もすごいドライバなのに、涼介さんは、他のドライバの能力を引き出すのもうまい。それは、彼らの能力を把握した上で、彼らに一番必要なアドバイスをその状況に合わせて与えているからだ。彼らの成長のステップもちゃんと読んでおり、彼らの理解できる範囲を超えたアドバイスはしない。でも彼らの理解の範囲内のアドバイスもしない。ちょうど、その時の彼らの一歩先のアドバイスをする。涼介さんの読み通りに成長しなければ、そのアドバイスは理解できない。
涼介さんは、バトルの前に、拓海にアドバイスをするのだが、そのアドバイスは大抵その場では、すぐ理解できないものだ。もちろん、読者のわたしにもわからない。ん?ていう謎かけみたいなものだ。拓海も最初は誤解してしまったりする。しかし、レースの後半で追い詰められてきて、ピンチになってきたら、ようやく、涼介さんの本当に言っていた事が拓海に理解できるのだ。そして、見事、そのアドバイスを生かして勝負に勝つ。
その時には、わからないけど、あとから拓海にも理解できる、ということは、涼介さんが拓海よりちょっと上のレベルに立っていて、でも、レースの途中でそのレベルに追いつくということを、ちゃんと読んでいるっていうことを表している。
この涼介さんのドライバへの信頼(だって、拓海がいまいちで、勝負の途中にわからなかったら、負けちゃうのだ。拓海なら理解できる、って信じてるからこそできるのだ)と、その信頼に見事こたえる拓海の天才っぷりが、いいのである。プロジェクトリーダとそのメンバの間には、やはり、信頼がないと、いい仕事はできない。
バトルの最初には、単なる謎めいた台詞にしか聞こえない涼介さんの断片的なアドバイスが、勝負の途中で、実はこういう意味で言っていたのだ、と理解できるとき、これは明らかに、ミステリのトリックの謎がとけた時の快感と似ていると思うのだ。
そうか、だから、わたしは『頭文字D』が好きだったんだなあ。
拓海が涼介さんのバトルチームに入ってなかったら、わたしにとっての『頭文字D』の面白さは半減だったな。
涼介さんの謎めいた最初のアドバイスが、読者にも理解できる謎ときの瞬間が、わたしにとっては最高に面白いのだ。そこにはミステリのなぞときにも似た魅力がある。そういえば、涼介さんのそばには、読者代表みたいな平凡めの人物がいっしょにいるのだ。これは、きっと、涼介さんが、読者にもわかる説明をしゃべれるように、ワトソンみたいな存在として用意されているに違いない。彼がいなければ、普通の読者には、涼介さんの意図が伝わらないからだ。なぜなら、すごい人同士の会話だったら、そのアドバイスを聞いただけで、意味がわかってしまって、説明がなくなってしまうからだ。
そんなわけで、『頭文字D』は、けっこう面白いのである。もうすぐ次の巻がでるらしいので、買わないとね。
みなさんは、プレゼントとして、誰かに本をあげたりすることはあるでしょうか?
【2005年11月8日(火)】
わたしは、贈り物として、誰かに本をあげるなんてほとんどしない。わたしにとって、すごく面白くても、それが誰かにとって面白い保証はないからだ。
本を読むのが大好きな人にはわかってもらえると思うのだけど、読書が趣味だ、などとうかつに初対面の人に漏らしたりすると、まず大抵の場合、相手の人に「おすすめの本とかある?」などと聞かれてしまうはめになる。そういう時、わたしは、まず、自分の大好きで面白かった本など教えない。そんな興味本位で聞くような人に好きな本など教える気などまったく起きないからだ。もし教えたとしても、本当にわたしの大好きな本がわかってもらえる気もしないからだ。
そんな風に聞かれた時には、適当にその時にベストセラーとか話題になっている本で読んでいる本をあげておく。そんな風に無遠慮に、おすすめの本を聞けるような人は、意味もわかりもしないでベストセラーの本でも読んでいればいいのだ。そして、ああ、読書の秋だから、ちょっとした読書をしたなぁって趣味ごころでも満足させていればいいのだ。多分ベストセラーってそんなためにあるのだ。なんか本を読んでおけば、趣味を満足できると思ってるような人が読める本となるために。
本を選ぶって、すごく神聖なことだと思う。もちろん、神聖などといっても、読みたい本を選ぶ時の動機は意外と軽い。表紙が好みだ、とか、タイトルがいい感じとか。でも、これも、本好きな人にはわかってもらえると思うけれど、表紙で選んでそんなに失敗したことはないんじゃないかと思う。大抵、面白い本というのは、表紙も感じがいいものだからである。または、面白い本は、わたしをまねいてくれる時もある。これも読書好きな人ならわかってくれると思うのだけど。
最近、表紙が気に入って買ったのは、山口雅也の『奇遇』。まだ最初のほうだけど、かなり面白そう。
話がそれたけど、自分が読みたい本を選ぶのはそういう風にすごく真剣に行うべきことだと思うのに、読書が趣味の人に適当に聞いておすすめの本を読めばいいと思ってる人なんか、本なんか読まなくてもいいよ、と思ってしまうのである。
そんなわけで、わたしは大抵の場合、人に本などあげない。
でも、すごく仲良しな人のお誕生日にだけ、自分のとても好きな本を贈ることにしている。
本て、文字で書かれている。わたしの読むような本は、文字だけで、挿絵などない。だから、文字を読みながら、自分でいろいろなイメージを想起しているのだと思う。だから、本を読みながら、自分なりのイメージを作っている。読書とは、自分の世界を築き上げるようなものだ。読者の数だけ、ものがたりの理解があるといってもいいくらい。
だから、ある人が、ある本を面白いと言っても、それがそのまま他人に適用できるとは限らないのである。その人にとって、すごく面白くても、他の人にとっては、まったく意味がわからないことだってよくあることだ。読書体験ていうのは、すごく個人的な体験なのだ。読書世界を見せるということは、ある意味、その本人の世界を見せることに等しいと思う。
だから、親しい人にだけ、自分の大好きな本を贈るということは、その親しい人にだけ、自分を見せたいということになるんだろう。読書行為は、他の行為に比べて、すごく能動的な行為だと思う。たとえば、映画や音楽は、流しておいてそのそばでぼーとしていても、時は流れて話は進んでいく。でも、読書は、そうはいかない。読者本人が、その本から意識を離せば、その世界の時間はとまる。そこで世界は終わるのだ。その世界に、能動的に入っていかなければならないのである。だから、本を贈るということは、能動的にその本にむかってくれ、というかなり押しつけがましい行為に思えるのである。でも、それくらい、押しつけてでも、わたしを理解してほしい、という気持ちのあらわれが、わたしにとって、本を贈るということなのだ。
だから、もし、わたしに本を贈られたなら、それは、「わたしを理解してくれる?」という告白なのだと受け取ってもらっていいのである。
最近、「モテ」がつく商品すごく多くないですか。
【2005年11月6日(日)】
わたし、基本的に雑誌ってほとんど読まなくて、たまに読むといったら美容院で読むくらいなのだけど、そこに出てくる見出しときたら、モテ系、モテトップス、ほれられメイク、モテ服、などなど。ほんと、こんなキーワードばっかなんである。そんなにいまどきの若い女の子たちは、モテたいのか、とびっくりしたくらい。もうちょっと前の雑誌には、ここまで直接的に異性にモテる効果をあおってる見出しはなかったように思う。そういえば、化粧品のコマーシャルでも、「お近づき肌」とかいって、男のそばに近寄る前提の話になっている。まあ、近くにいくのは、モテた結果、一人に決めた後の話になるんで、ちょっとまた違うかもしれない。でも、こんなに強く異性の目を気にした広告戦略っていままでもあったのだろうか?わたしは意識してなかった。
一番気になるのはなぜみんなそんなモテたいのか、ってところだ。個人的にはそんなにモテなくていいんじゃないかと思う。ただ一人の自分の気に入った異性に好かれればそれでいいんじゃないのだろうか。
思い当たるのは、最近娘の運動会に出かけて男女の比率を見ると、娘の世代って、女子のほうが多い気がするんである。うちの小学校だけの現象なのかな。もし、そうなら、モテる特集は、将来、少ない男子の取り合いになることをみすえての、女子の争いを暗示してるような気もする。
モテる、ということは、つまり、相手から好かれたい、っていう意志のあらわれなのかもしれない。そうみんな愛されたいのか。愛するよりも、愛されたい。それもできれば多くの人に愛されたい。拒絶されたくない。そういうこころの表れなのかもしれない。せめて、外見で嫌われるようなことはないようにしたい。そう考えていくと、モテ系メイク、トップスで身を固める女の子は、基本的には明治くらいの女性から内面的にはあまり変わってないのかもしれないね。
でも、女性が愛されたい、と願う気持ちは、それだけじゃないかもしれない。
最近、ちょっとした純愛ブームだと思っているんだけど、これも結局は、若い女の人が愛を求めている証拠なんじゃないか、と思ってたのだ。そして、それは、女たちが愛を求めている、というよりも、最近の若い男の人が、純粋に女を愛していない証拠なんじゃないのか、と思ったりするのだ。
つまり、若い女の子が自分を愛して欲しい、と願っている対象となる若い男の子たちは、オタクに走ってフィギュアやありえないくらい巨乳気味なアニメの女の子にしか萌えていないのでは?ということだ。または、オタクに走らなくても肉欲を満たす手段はこの世の中なんとでもあるわけだから(金さえ払えば)、わざわざめんどくさい女の子に行く必要性もないのかもしれない。彼らに必要なのは、愛情ではなく、妄想なのだ。
ああ、それで、電車が流行ったのかもしれない。あれは、フィギュアやアニメに行ってしまった男の子が、女の子に気付いて戻ってきてくれるお話だったものね。
今日、北海道物産展にでかけた。目当てはカマンベールチーズ。会場で「マルセイバターサンド」という看板を見付けたので、早速買おうと思ったら、売りきれだった。残念。マルセイバターサンド、おいしくないですか。すごく好きなんだけどなあ。
【2005年11月5日(土)】
チーズ売り場では、ゴーダチーズとブリーとカマンベールを試食させてもらった。どれもうまくて、全部欲しかったけど、結局買ったのは、カマンベールだけ。本当はモッツァレラチーズが一番好きなのだけど、会場には置いてなかった。残念。モッツァレラチーズは定番のバジルとトマトといっしょにサラダにしてもおいしいけど、しょうゆをかけて冷奴風に食べても美味しいんである。
カマンベールチーズは、ゆでたじゃがいもと一緒にオーブンでちょっと焼いて、しょうゆをたらすと美味しいよ、とチーズ売り場のおばちゃんが教えてくれた。早速明日、ビールのつまみに作ってみようと思う。
そういえば、今日のお昼は近所のおいしいラーメン屋さんに一人ででかけた。ひそかにこ辺では一番美味しいと思っているラーメン。今年、一○堂(○風堂)が出店してきて、本場のとんこつ、といわれているものを味わったけど、本場のとんこつとは違うかもしれないけど、個人的に、今日でかけたラーメン屋さんは、この辺で一番美味しいラーメン屋さんと思っている。ここのとんこつしょうゆは、すごおく美味しいんである。
そういえば、わたしは、ラーメンを食べたくなったら、一人でも食べに行く。お店の人に「ひとり?」ってわざわざ聞かれることもある。女の人が一人でラーメンを食べに来るっていうのは、あまりないってことだろうか。友達の女の子に、ラーメン屋に一人で食べに行く、という話をしたら、びっくりされた。女の人はあまり一人でラーメンを食べに行かないらしい。一人のほうが、しゃべったりしないで、スープに集中できるから、本気でラーメンを食べるなら、一人か、わざわざ気を使ってしゃべったりしないくらいの仲良しと行ったほうがいいと思う。だってラーメンに集中できないから。
それにしても、男の人は、一人でラーメン食べに来ている人はいっぱいいるんだけど。女の人は一人で外食しないものなのだろうか。
確かにラーメンでなければわたしも一人でわざわざ外食にはでかけないかもしれない。ラーメンはそれくらい、すごく好きな食べ物だ。これを会社の隣の席の男に言ったら笑われたんだけど、ラーメンのどんぶりには、文化がつまってると思うんである。文化、というのが大きすぎるとすれば、そのラーメンにかける店主の生き様というか。もちろん、どの料理もそうなのだろうけど、特にラーメンには、それを感じるんである。
今日はハロウィーン。検索して調べてみたらハロウィーンて今日祝うようだ。わたしはてっきり、11/1なのかと思っていた。娘も、今日はお友達と手作りお菓子でハロウィーンパーティをしたらしい。さっき、娘手作りのお菓子を食べた。ていうか、手作りお菓子を作る時点で、完全に、わたしとは違う人種に育っている。どうしてなんだ。
【2005年10月31日(月)】
昨日、テレビで、「LOVERS」を観る。金城武ファンとしては見逃せないと思った。金城くんはなかなかよかった。チャンツィーもありえないほど美しいアクションで魅せてくれた。なによりも、映像が本当に素晴らしい。美しい。金城くんとチャンツィーが出会ってからの風景は、見事に、春夏秋冬と色彩が変化して、二人の運命も示唆していて、素晴らしく美しかった。たとえば、竹の中で、緑色の衣装をまとったチャンツィーが立っている様、とても美しいと思った。または、真っ赤な紅葉の中で、緑色の衣装で立ち尽くすチャンツィーも本当に美しかった。
衣装と風景、色彩の組み合わせの映像は本当に美しいと思った。それと正反対に、人間の感情がちょっと美しくなかった。人間の感情、ときに執着とも思える愛情は、あまり美しくないということだろうか。アンディラウが嫌な人間に思えてしまった。単に金城武ファンだからともいえる。
それにしても、「LOVERS」は、いつも感じるせつなさがあまり感じられない映画だと思った。映像は綺麗だったのだけど。
そういえば、最近読んだ本のことをまた書こうと思う。
荻原規子さんの作品が好きで読むようになったのだけど、この間初めて「西の善き魔女」シリーズを読んだ。夢中で読みつづけてしまって、シリーズ全部、あっという間に読み終わってしまった。面白かった。『風神秘抄』ももちろん読んだ。荻原さんの小説は、読み終わったらいつも泣いてしまう。なんともいえず感動しちゃうのだ。別に泣けるわけじゃないし、みんなには不思議がられると思うけど…。
そいえば、この間、偶然に、荻原規子さんの日記を見つけたのだ!読んでるマンガで、わたしも好きなのがあって面白いと思った。『鋼の錬金術師』と『HUNTER X HUNTER』と『陰陽師』。まあ、面白いから誰が読んでも不思議じゃないだろうか。
『HUNTER X HUNTER』 も娘に教わったマンガだ。かなり面白い。ただ、難なのは、出るのが遅いところかな。早く次が読みたいな。
そういえば、牧野修さんの『記憶の食卓』も読んだ。あいかわらず、読み進めるのがためらわれるくらいの気持ち悪い文章で素敵だ。気持ち悪いグロテスクなシーンで気持ち悪いのじゃなくて、日常表現で、気持ち悪さを出すところがすごいと思う。
どもよしもとです。
【2005年10月30日(日)】
こんなところを見に来ている人はもういないと思いますけど、まあ、こころの中のできごとがたまってくると出すという場所なので、たまってきたら書くわけです。
ところで、日記の文章で、同世代の女性を結構批判した文章を書いたのである。そしたら友人が見てくれて、彼女がその感想を率直に述べてくれた。すごく、、なんて表現したらいいかわからないけど、こころの距離をすごく感じられてしまったみたいだ。でもわたしは後悔はしない。もし、同世代の女性が下の文章を読んだら、ちょっとむかつくと思う。でもわたしはそう思ったし、そう感じたことをそのまま見せてしまったことはおとなげないと思うけど、でも、素直な気持ちだから謝らない。どうして、こんないい年なのにこんなにかたくななんだろうな…。でもわたしがその友人のことを今でも大事に思っていて好きな気持ちも変わってない。
仕事のことを書こうかな。
何年か前からずっと書いていることだけど、ほんとに仕事が忙しい。でも、その仕事はちょっと面白いところもある。わたしは、ものがたりが好きだ。これは本とかマンガを読んだりRPGをやったりしてるところからもうかがえるけど、なんていっても、ものがたりが好きだ。
なんで仕事の話なのにいきなりものがたりかというと。ここでいうものがたりは、お客さんの要望を聞いて、要求仕様書をまとめることに似ている。たとえば、ソフトウェアで障害が発生してその障害発生の原因をつきとめることにも似ている。そんなわけで、ソフトウェアを組むことは、ものがたりづくりに似ているとわたしは思うのだ。
だから、わたしは毎日、ものがたりを作っている。そのものがたりの主人公は、馬に乗ったり剣で竜を倒したりはしない。そのものがたりは、結果としてソフトウェアになる。でもこれは前から思うことだけど、ソフトウェアはものがたりと思う。お客さんの要望を聞いて、まだ姿になっていない架空のシステムを設計することは、ものがたりを頭の中で考え出すのと似ていると思う。だから、この仕事がいやになってやめたくなったりしないんだなあ、と最近思った。
でもね、どんなことでも、ポイントとしてのアイデアがあって、そこからうまくストーリィを組み立てて作業するって、人間の営みにとって普遍な作業と思う。たとえば、料理とかも。で、そういうストーリィ仕立てとか、一貫したコンセプトみたいなものを持っていないプロジェクトってうまくいかないと思う。プロジェクトって書くと仕事みたいだけど、たとえば、そうなんでもそうだ、旅行計画でも、ふとした会話でも。人間が生み出そうとする手続きみたいなものには。手続き、というか、時間の流れっていうか。そういう一貫した意匠には、みんな関係してくると思う。
なんかいつもおんなじことばかり書いてるみたい。年寄みたいになってきたなぁ…。
最近、読んだ本ですごく感動したのは、『十二国記』。何気なく読んでみたらこれがものすごく面白くて。こんな面白い本を今まで読んでなくて、いま、新しく感動しながら読めた事をちょっと感謝してしまったくらい。うちの娘は11歳なんですが、彼女もいっしょに読んでいる。あの年頃でこの物語を読めたことをちょっとうらやましく思う。今は今の彼女に理解できるところしか、認識領域には入っていかないかもしれないけれど、あの小説の考え方のすべては、彼女の中にふりつもっていくわけで、大きくなってからそれがふと、認識領域にのぼってくることがあるだろうから、それは、彼女の人格形成にすごくプラスになると思う。
話は十二国記に戻って、この小説のどこが面白いかというと、まず、一番言えるのは、十二国記という世界のシステムがすごく考えられているところだと思う。とにかく、うまくできている。
そして、もうひとつの魅力は、主人公の陽子が人間として成長していく過程が大変しっかりと描かれているところ。それも、時には過酷と思える状況に主人公をおいて、わあ、見ていられない(>_<)という感じまで、主人公に試練を与える。そして、主人公がしっかりとその試練を受け止め、内面から成長するところを描き出しているところが感心する。
人間は、変われる。自分で気付いていけば、ちゃんと変われる。こんなに主人公がちゃんと成長していく様子が目に見えてわかる小説ってほかにない気がする。
大体最初から主人公は前向きだったり、選ばれた人だったりする。それなりの活躍をしてもおかしくないものを最初から持っている。でも陽子や、あとからのお話で主人公になる、鈴や、祥瓊という少女たちは、最初は、とても友達にもなりたくないようなある意味どうしようもない女の子だったのに、いろいろな出来事や人との出会いを経て、ちゃんとした自分を持った人物に成長していく。それを読んでいてすごく感じるから最後に立派になった少女たちを見るとちょっと涙が出たりする。
この小説を面白いといって読みふけっている娘をちょっと嬉しく思う。
最後はちょっとだけ、うちの娘の話。彼女は、内面的にも外見も、大人になりつつある。もう自分の世界を持っていて、わたしとは違う人間だ。(あたりまえ)彼女に何かをしてもらいたかったり、理解してもらいたかったら、ちゃんと彼女に話をして、わかってもらえるまで説明しないといけない。あたりまえのこと。
彼女は、わたしとは違う女性に育っているけれど、わたしみたいな部分も持っている。
そのひとつは、本を読んだりマンガを読んだりするのが好きなところ。しかも、彼女は大きくなってそれなりの世界を持つようになったから、彼女から教わるものがいっぱいある。家にもうひとりわたしみたいな人で違う世界を持っている人がいるってことは刺激になる。たとえば、先日は、『鋼の錬金術師』を彼女から教わって、読み始めたのだけど、もう夢中になって全巻そろえちゃったわけだ。一緒に並んで読みふけった。映画も観に行ってしまったくらい。久久に夢中になって読んじゃったマンガ。そんなマンガに出会えたのも、娘のおかげ。
1998-2005 (c) Yoshimoto
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