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正面の額に入っている写真が鈴鹿シルバーカップレース・FL500(スズキLC10Wの2サイクル3気筒420ccエンジン)参戦時のものです。左の赤い車はメタルモデルのFERRARI 250GTOで、義理の妹のイタリア土産です。トロフィー・盾は引越しの際に納戸の何処かへ行ってしまい、現状はこれだけです。
この写真は息子が小さい頃熱中していたF-1のメタルモデルを収集したものです。なかなか精巧に出来ていて、ハンドルとタイヤが連動して動きます。
右からBRABHAM BT52、
MCLAREN MP4/2、
FERRARI 126 C4、
FERRARI 641/2、
BENETTON FORD B188です。 |
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最近のラリーストはラリコンのお世話になっているのでお目に掛かった事は無いかもしれませんが、以前のナビゲーターは皆持っていました。Rally Mate DXと言い、円形をした計算尺で、まず中心の矢印の部分でオドメーター距離で試走車と補正し、後は真中のレバーを緩めて指示速度をセットすれば、経過分毎、又は走行距離毎にそれぞれ走行距離、経過時間を読んで自車と比較します。ちなみに大西式と言われる距離加算方式が一般的でした。ちなみにこの円盤にはPAT No.136345 が付いていました。特許だったんですね。我が家には新品同様(ケース付き)で保管されています。 |
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W.S.C.'99で総合優勝した地元オーストラリアのAURORAチームのパーカーです。ゴール後毎日ゴール場所のVictoria Parkへ通っていたところ、AURORAチームのBOB君が私の着ていたKITのトレーナーと交換しないかと言ってきたので交換したものです。
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最初の頃はらしき風のレーシングスーツもどきを使っていましたが、これはFirelex製のちゃんとしたレーシングスーツです。 |
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FJ360をするようになってから購入したアライ製のフルフェース型ヘルメットです。日本ではようやくフルフェース型が生産されるようになった時代で、アライ製の初期のものです。SNELL1970の合格品でUSASI STD.Z90>1-1966 ARAI HIROTAKE SHOTEN CO.LTDというラベルも貼られています。いくらだったかは記憶にないのですが、かなり高価だった気がします。 |
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autolook製のヘルメットの下に被る耐火性(と言っても数十秒だか数分だかのものだったと思います。)のフェースマスクです。この他、同様の素材のレーシングスーツの下に着用するアンダーウエアも有りますが、これはお見せできません。 |
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1977年7月に新潟県で開催されたCAT・Sセミナイトラリーにナビゲータとして参加し、3位入賞した時の賞品に頂いたものです。レーシングスーツやヘルメット(アライ製)を入れて、競技会へ行く時はいつも一緒でした。 |
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お宝といっても我が家の庭に転がしてあったものです。かってFL500を製作したり走らせていた時のレーシングタイヤでサイズは130/450-10で、当時の軽自動車は10インチのホイルを使用していたため同様の10インチホイルとなっています。メーカーはDUNLOP製です。 |
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ホンダのソーラーカー・ホンダドリーム'96号をモチーフにして製作されたソーラー腕時計です。鈴鹿サーキットの売店で見つけて購入しました。四輪車の形をしており、見た目にもホンダドリーム号の形をしています。現在も実動しています。さすがソーラーウオッチです。 |
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鈴鹿モータースポーツクラブ(SMSC)のカーバッジです。1971年に自作FJ360を鈴鹿サーキットで走行させる為にSMSCに入会しました。塗装が剥がれているのは、ラリー車のフロントグリルに取りつけてあったため、跳ね石などによるものです。ちなみにSMSCは、現在のF-1日本グランプリの主催クラブとなっています。 |
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1979年のWRCでの走行音やコースアウト音(転落)、車内音、サービスでの音声などが入っています。この当時の主力車種はランチャ・ストラトスHF、フィアット131、フォードエスコートRS1800、サーブ99ターボ、タルボット・サンビーム・ロータス、ダットサン160J、トヨタセリカ、三菱ランサー(A73)、イスズジェミニ(HOLDEN名)などでした。収録ラリーはアクロポリス(1979年5月)、スコティシュ(1979年6月)、RAC(1979年11月)、バンダマ(1979年12月)、1000湖(1979年8月)、モンテカルロ(1980年1月)、ポルトガル(1979年3月)、サファリ(1979年4月)、サンレモ(1979年9月)、サザンクロス(1978年9月)などです。これに写真家の二村保氏の写真集がセットになっています。
なお、このLPレコードを聴くにはレコードプレーヤーが必要ですが、我が家にはビクター製のQL-7というレコードプレーヤーがあります。このプレーヤーは最近ソーラーカーやエコノムーブでも主流になりつつある、ダイレクトドライブ・モータを使用していて、以前のベルトドライブと異なり、回転むらがまったくありません。このページを作成するに当たり、今回も一通り聴きました。何時聴いてもいい音がします。 |
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またまたLPレコードです。生沢徹という名前は御存知でしょうか。現在のF-1選手のように1960年代の日本ではモータースポーツを志す者では知らない者がいないほどの有名人でした。1970年自費でヨーロッパF-2を転戦し、シリーズ6位になっています。当時日本ではフォーミュラは知名度が低く、グループ7と呼ばれたプロトタイプスポーツカーが主流でしたが、三菱だけはコルトF-2というフォーミュラカーを開発しており、フォーミュラカーで争われた1970年日本グランプリに生沢選手をドライバーとして起用し、当時のトップマシン、ブラバムと争いました。このレコードには田中健次郎、風戸裕、河合稔,高橋国光、米山二郎などの声が入っています。
なお、このレコードは1971年日本グランプリ会場(富士スピードウエイ)で販売され、生沢徹選手のサイン色紙付きでした。
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1992年のカードがOrganizerとなっているのは、8月末に開催されたソーラーカー・ラリー・イン能登'92開催・運営のため、運営、車検、ソーラーカーそのものなどを鈴鹿サーキットさんのご好意で見学させて頂けることになり、どこでも入場できるカードとして発行して頂いたためです。
1993年はTodayクラスで2位に入賞した時のカードです。 |
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1994年は下位に低迷し、1995年は投入した新車がトラブルで途中で停車とこの2年間はあまり良い事はありませんでした。 |
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1997年は見事総合優勝した年のものです。
1996年も準優勝しているので、この2枚はプレミア物です。 |
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2001年はWSC2001があり、金沢工業大学・夢考房のKIT Golden EagleはWSCに専念するためソーラーカーレース鈴鹿には参加しなかったのですが、私は場内放送のコメンテーターを依頼され、参加しました。
と言う事で見事10枚(全カード)たまったのですが、鈴鹿サーキットさーん、何か記念品が貰えるとかはないのでしょうか。? |
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11枚目です。始めてKIT Golden Eagleが予選でポールポジションを獲得し、シャシ性能の優秀さを見せつけましたが、マネージメントの失敗からレースでは4位に終わりました。 |
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2004年・2005年は場内放送のゲスト、及び特別賞(デザイン賞・アイデア賞)の選考委員として参加しましたので、コントロールタワーも入場できるクレデンシャルカードとなっています。 |
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2006年・2007年も場内放送のゲスト、及び特別賞(デザイン賞・アイデア賞)の選考委員として参加しました。2006年は初めてVIPなるクレデンシャルカードをいただきました。 |
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2008年は場内放送のゲストとして、2009年は金沢工業大学のチームとして参加しました。、 |
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ソーラーカーレース鈴鹿 クレデンシャルカード 10 |
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2010年は再び場内放送のゲストとして、鈴鹿へ行きました。
2011年はレスキューロボットコンテスト参加のため、鈴鹿へ行くことは出来ませんでしたが、鈴鹿サーキットのご好意により、第1回大会からのクレデンシャルカードコレクションに加えさせて頂きました。 |
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1992年に開催されたソーラーカーラリーイン能登'92に参加した、にゃんだソーラ(関西電力・庄川電力所)が製作して大会時に配布したうちわです。ニャーオ、ニャーオと鳴きながら走行する、とても愛嬌のあるソーラーカーでした。現在はどうしているのでしょうか。 |
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ソーラーカーラリーイン能登'96の記念オペラグラス |
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ソーラーカーラリーイン能登'96にて、大会当日の来賓用に配布されたオペラグラスです。画像ではわかりにくいですがビニール袋に入ったままで、開封してありません。大事な大会の記念品です。 |
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セナがマクラーレン時代シェル石油がスポンサーをしており、昭和シェル石油で何リッターかを給油するたびに貰えた昭和シェル石油オリジナルテレホンカードです。まだ何種類か有ったように思いますが、使ってしまったようで、同じ種類のものばかりが数枚未使用で残っていました。その内プレミアが付けば本当のお宝です。 |
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石川県で1992年と1996年に開催されたソーラーカーラリー・イン・能登のオリジナルテレホンカードです。 |
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過去の競技会参加履歴を調べていたら、懐かしいものが出てきました。ラリー暦の長い方はご存知かと思いますが、昔のラリー競技会では、競技中ラリー車のリヤサイドガラスに公認競技会之証を貼り付けて走行していました。上より @第7回 DCCSウインターラリー(1976年2月) A第3回 DCCSサマーナイトラリー(1977年8月) Bラリーハイランドマスターズ(1977年8月) C第10回 筑波ラリー(1978年5月・全日本)の公認競技会之証です。 |
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CELICA 1600GT Sports Parts |
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過去のモータースポーツ資料を整理していたら、こんなものが出てきました。初代CELICAのスポーツパーツ価格表です。発売元は(株)トヨペットサービスセンター・特殊開発部・スポーツ部品課となっており、取扱いは各地方のトヨタデーラーに開設されていたトヨタ・スポーツコーナーとなっています。私の地元、石川県では石川トヨタ自動車にスポーツコーナーがありました。 |
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COROLLA 1400・1600 Sports Parts |
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こちらはカローラのスポーツパーツ価格表です。1973年5月現在となっており、TE27は発売になっていましたが、T型と2T型エンジンの1400と1600だけで、2TG型レビンはまだ掲載されていません。カローラはカローラ店で販売されていましたが、石川県ではスポーツコーナーは石川トヨタにしかなく、スポーツパーツはトヨタ店扱いでした。 |
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このタイヤをご存知の方はいますか。DUNLOP PW98 といいます。スパイクタイヤが使用禁止となってから随分経ちますが、ウインターラリー専用に開発されたタイヤで、降雪路でのみの使用に特化した高性能タイヤで、これにスパイクピンを打ったものです。我家にまだ転がっていましたので、雪の上で写真を撮ってみました。ラジアルタイヤが主流の中で、バイアス構造のタイヤでした。現役時代の私の愛車TE27レビンに使用していたもので、560-13 というサイズで扁平率は当時の一般タイヤと同様82%ととても細く、トレッド面は非常に小さく、接地面圧を上げ、雪に良く噛み込むように考えられていました。またプロックは粗く、剛性を確保するとともに、排雪性にもとても優れたタイヤでした。雪が一番似合います。 |
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F-1用ホイールも製造している富山県のTAN-EI-SYA製 Champion Motorsport RS97(アメリカで販売) 19インチアルミ(A6061-T6)鍛造ホイールです。純正18インチホイールはスタッドレスタイヤ専用としたため、夏用タイヤとともにTAN-EI-SYAの販売部門・TAN-EI-SYA WHEEL SUPPLY(TWS)に無理なお願いをして購入することにしました。日本ではもしかするとこの1setのみしか見ることができないかもしれません。 |
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本のタイトルは「PMC・Sにみる日本のモータースポーツ」ですが、PMC・S(プリンスモータリストクラブ・スポーツ)の歴史だけではなく、日本でのモータースポーツの歴史がわかる一冊です。著者の茶木寿夫氏はALC(オートライフクラブ)代表で、富山県の出身ということや、日本アルペンラリー等でもお世話になり、現在もお付き合いをさせていただいています。この本の中にもご好意でほんの少々名前を出させていただき、出版と同時にお送りいただきました。これだけ良く調べてまとめられたものだなと感心しました。知らなかったことが多々ありました。モータースポーツ愛好家の方はぜひ一度お読みください。 |
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