慙愧のこころ
先日、
幼稚園へ行っている子供を持っているお母さんの話を聞きました。
ある日、そのお母さんは幼稚園の参観日に行ったそうです。
すると幼稚園の教室の壁にお母さんの似顔絵が貼ってありました。
自分の子供の絵はどれだろうと捜して、
ようやく自分の子供の絵を見つけたとたんにがく然としたそうです。
なんと自分の似顔絵は
まゆ毛と目がつり上がったこわい怒った顔に描かれていたそうです。
いつもは楽しく他のお母さんとおしゃべりして来るのに、
その日は恥ずかしくて、そそくさと家に戻りました。

子供が帰って来ると、早速、
「なんで、あんな絵を描いたの。
お母さんはいつも怒っているわけではないでしょう」
とまた怒ってしまったということです。
子供にはいつも素直になりなさいと言っているのに、
子供は素直にお母さんの姿を描いたら、
また怒られてしまったものですから、
子供もどうしたらいいのか分からなくなったのではないでしょうか。
このようにわたし達はひとの悪いところはよく気が付くけれども、
自分の悪いところとなると、
なかなか気が付かないものです。

蓮如上人の仰った言葉を書き残されたものに、
『蓮如上人御一代記聞書』という書物があります。
その195条に、
「ひとの悪いところは、よくよく見えるものだ。
自分の悪いところは、思い当たらないものだ。
自分の身に分かるほどの悪いところがあれば、
よくよく悪いのだから、身に知られたのだと思って、
心を改めなければならない。
ただ、他のひとのいう事をよく信じなさい。
わたしの悪いことは、思い当たらないものである」
とか書かれています。
蓮如上人の時代も今も変わりはないようです。

お経というのは、
お釈迦様の仰った言葉を書き残されたものです。
そのお経を我々は聞いているのですが、
普通「お経を聞く」というように表現しますが、
「お経に聞く」が本当の聞き方ではないかと言った人がいます。
では、「お経を聞く」と「お経に聞く」というのでは何処が違うのでしょうか?
それは「お経に聞く」は「お経に何かを聞く」の
何かが省略されているということです。
それではその何かというのは、
「お経に自分を聞く」の自分が省略されているということです。

それではお経に自分を聞くとどうなるか。
お経に自分を聞くと、
先ほどの幼稚園児の母親と自分とは
たいして変わりが無いことが見えてまいります。
人の悪いところはよく気が付くけれども、
全く自分自身の姿が見えていなかったということに気付かされます。
そうすればまことにお恥ずかしい自分自身であったということが分かってきます。
仏教用語である「慙愧」のこころが起こってきます。

親鸞聖人は『教行信証』という書物の中で、
「慙」はみずから罪を作らず、
「愧」は他を教えてなさしめず。
「慙」は内にみずから羞恥す、
「愧」は発露して人に向かう。
「慙」は人に恥ず、
「愧」は天に恥ず。
これを「慙愧」と名付く。
「無慙愧」は名付けて「畜生」とす、と書かれています。
お経というのは、
亡くなった人に聞かせるものだと思っている人が多いようですが、
お経を聞くということは仏の教えを聞くということで、
仏の教えを聞くということは、
人となって行く道を聞いていくということです。
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