皆さんはお経といいますと、
「阿弥陀経」が一番聞きなれたお経ではないでしょうか。
この「お経」というのは、
お釈迦様がお話になられたお言葉を、
お釈迦様が入滅後に、
その言葉を記憶していた弟子達が集まって、
その説法を後世に残そうということで、
サンスクリットという言葉で書き残されたものです。
それが中国に伝わって、
中国語に翻訳されたものが、
日本にまで伝来してきたという経緯があります。
ですから「お経」というのは、
お釈迦様の説法を書き残されたものをいいます。
その「お経」という言葉はサンスクリット語では「スートラ」といいまして、
それが中国語に翻訳されて修多羅という言葉になりました。
その本来の「スートラ」という言葉の意味は織物のたて糸という意味で、
昔から現在、
そして未来へとたてに貫いている変わらないものを表わしているのです。
つまり、「お経」というのは、
永遠に変わらぬ普遍的な真理を表わす言葉なのです。
それに比べて、
横糸は常に移り変わって行くもの、
あてにならない仮のものを表わしているといって良いでしょう。
その横糸というのは、
実はわたし達が毎日あくせくして求め続けているものなのです。
例えば財産とか地位、名誉、家柄、権力、容姿、健康など、
数え上げたらきりがありません。
皆さんが欲しくて欲しくてたまらないもので、
もし手に入れることができれば、
それこそ得意満面になりそうですね。
ところが、
必死の努力や幸運でそれらが手に入ったとしても、
それらのものは、
いつまでも自分を光り輝かせているというわけにはいきません。
地位も名誉も容姿も健康さえも、
いずれは衰え、
色褪せて行くのではないでしょうか。
ですから、それらを得ようと大変な目に会って、
もしそれらが得られたとしても、
どれも本当に頼りになるものはありません。
それに比べて、
たて糸といわれる変わらないものは何でしょうか。
それは無量寿といわれる、はかりなきいのちのことです。
世の中は不景気だ不景気だと、
今にも日本が沈没してしまうような悲観論が支配していますが、
好景気のときも不景気のときも美しい夕日は変わりませんし、
海岸には波が打ち寄せている。
また、同じ空に雲は漂い、同じく風は吹き続けている。
そんな中で過去から未来を通じて、
同じいきいきとしたいのちの躍動が続いているのではないでしょうか。
それが我々は横糸ばかりに関心が行くものだから、
いつでももっと欲しいという飢餓感ばかりに悩まされてしまいます。
そういうわたし達に「お経」は、
すでに充分満たされた人生が与えられているという事に
目覚めて欲しいと呼びかけているのです。
ところが横糸にしか関心の無い人々は
いつも他人との比較にのみあくせくしてしまいます。
自分と比較して、優れていると思えば優越感に浸ります。
また劣っていると思えば、
どうせ自分なんかとヤケになってしまう。
比較している限り、上がったり下がったりで心の休まる暇がありません。
いきいきとしたいのちそのものの世界に目覚めた人は
もう他と比較する必要の無い、
わたしの与えられたものに満たされて、
それぞれの個性を活かすような人生を感謝の気持ちと共に、
送っていけるようになるのではないでしょうか。
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