猛暑に思う
今年の夏は、各地で記録的な暑さになりました。
金沢でも連日三十度を超える日々が続き、
夜の寝苦しさにとうとう死者まで出るという始末でした。
冬は冬で暖冬が続き、まさに地球の温暖化が
急ピッチで進んでいるのは間違いなさそうです。
その原因の一つは、
地球の二酸化炭素の濃度が
年々増加しているということだそうで、
石油エネルギーの使い過ぎや、
各国での森林の伐採が大いに影響しているものと思われます。

世界の森林の減少を見て、
作家の高史明(コサミヨン)氏は
「人は山に木材を見て、木を見ない」と歎いておられます。
まさに人間の知恵は、
山の木を経済価値の尺度から木材と見て、
それが二酸化炭素を減らし、
酸素を私たち人間、
いやあらゆる有情(うじょう:いきとしいけるもの)に
供給してくれているという重大な働きを忘れてしまっていると
言いたいのではないでしょうか。

このことでも分かるように、
人間の思考はともすれば人間にとって有用なのか無用なのか
という思考に走りがちで、
人にとって有用なものが善であり、
無用なものが悪であると思いがちです。
ところが例えば益虫、害虫というのを
学校の教科書で習った覚えがあると思います。
確かハエや蚊は人間に害をもたらすから害虫であり、
トンボはそれらを取ってくれるから益虫だという説明だったように思います。
しかしよく考えてみますと、
ハエや蚊がいるからこそ、
トンボはそれを取って生きていられるのであり、
ハエや蚊がいなければ、
トンボはえさが無くなってしまうということになります。
とすれば、有用だと思っていたものが、
じつは無用だと思っていたものに支えられていた
というのが事実なのではないでしょうか。
ですから人間の考えた善悪はあくまで自分中心の善悪であって、
そこから発する善悪は果たして真実の善悪といえるのかどうか、
はなはだ疑問なのではないでしょうか。

親鸞聖人は歎異抄の中で
「善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり。
そのゆえは、
如来の御こころによしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、
よきをしりたるにもあらめ、
如来のあし(悪し)とおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、
あしきをしりたるにあらめど、
煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、
よろずのこと、みなもって、
そらごとたわごと、まことあることなきに、
ただ念仏のみぞまことにておはします」
とおっしゃっておられます。

親鸞聖人は、
我々凡夫の世界は万事が私利私欲に汚された世界であるため、
真実というのがありえないのであるが、
ただ念仏によって往生を願う道のみが、
真実に目覚めていく道なんだとおっしゃっておられます。
今、人類の文明は恐ろしいスピードで進み、
人間にとって快適なものが次から次へと作り出されて
便利な世の中になってきたようです。
しかしながら、
快適で便利になったのは人間だけであって、
その他の有情にとっては、
はなはだ住み辛い環境になってきているのは間違いなさそうです。
連日の猛暑の中で、
人類が果たしてこのままの方向で進んでいって大丈夫だろうかと、
ふと思ったのはわたしだけでしょうか?
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