真宗中興の祖といわれて北陸地方では特に馴染みの深い
蓮如上人の仰ったことを書き集めた
「蓮如上人御一代記聞書(ごいちだいきききがき)」
という書物があります。
この書物には蓮如上人の求道の姿勢と
その生活が主に書かれていて、
私たちには教えられることが多くあります。
その数ある求道生活のエピソードの中の一つを紹介しますと、
『ある日、
蓮如上人は廊下をお通りになられた時に、
紙切れが落ちていたのを見つけられて、
「仏法領の物を、無駄にするかや」を仰って、
両方の手で押しいただいたということです。
すべて、紙切れなどのような物を
仏物と思われて用いられていらっしゃったので、
おろそかに取り扱うことはなかったということです』
と書かれています。
現代は使い捨ての時代とかいわれて、
ごみを大量に出す時代となってしまいました。
最近ではそのために、
ごみのぶんべつに頭を悩ませるという
皮肉なことにもなってきています。
物を仏法領の物(仏さまの領分に属するもの)ということで、
仏さまからの賜りものといただいた蓮如上人の態度と
現代ではまったく異なる様相となって来ているようです。
わたしたちは廊下に紙切れなどが落ちていたところで見向きもしないか、
またはごみが落ちているというような認識しか持ちませんが、
それは紙切れに何の価値も見出さないところから来ています。
それというのも、
わたしたちは物を役に立つかとか
自分にとって必要な物かどうかによって評価しているから、
何の価値も無い紙切れなどには見向きもしませんが、
もし廊下に落ちていた紙切れが一万円札だと気が付いたら、
それどころではなくなるはずです。
それほど現代人は価値によって物を見るということになってしまいました。
それに比べて昔の人は、
例えば太陽を「お天道様」と言って拝んだりしたのですが、
現在ではせいぜい山登りをしてご来光を拝む程度になってしまいました。
それというのも、
現代人は太陽は水素の核融合反応から熱を出していて、
その寿命はあと何十億年などと太陽を物質として見るようになったからです。
そしてその核融合反応を地球上でも起こして、
半永久的なエネルギーを得ようと日夜研究が続けられています。
太陽を利用しようとする人はいても、
拝む人などはほとんどいなくなってしまいました。
しかし現代人の見方の方が正しいのでしょうか?
昔の人が太陽を拝んだりしたのは、
「太陽の恵み」ということを知っていたのです。
自分とは切っても切れない関係にあるのだということを
いつも感じていたからにほかなりません。
土にしても生命のあるものではなく生命の無いものとして見ていますが、
どれほどの命をはぐくんでいるかを考えれば、
かけがえの無いものだということが分かります。
ところが現代人は自分が手に入れた物は自分が稼いだ結果なのだとか、
人類の生存のために自然は利用すべきものなのだと考える人が多いようです。
そこには物というのは賜った物なのだとか、
自然によって生かされているとかいう
感謝の気持ちは無くなりつつあるようです。
しかし物をもっと深く知るようになると、
物の意味が変わってくるのです。
自分が所有するものは仮に私に一時的に与えられたものであり、
預かりものなんだということに目ざめて来るのです。
つまりわたしが作り出したものは一つも無く、
それらは総て仏より賜ったものであり、
それだからこそ粗末にしてはならないと
紙切れさえも押しいただく感謝の気持ちが生まれるのです。
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