忌み言葉
長年使っていた自動車がかなり古くなってきましたので、
買い換えることにしました。
自動車は買う契約をしてから
届くまでにひと月ほど掛かるのですが、
その届くという日の二三日前になって、
自動車販売店から電話がかかってきました。
それも申し訳なさそうな声で、
「今、車の登録に行ってきたんですけど、
お宅の車のナンバーが9番になってしまいました」
と言うのです。
始めは何のことか解りませんでしたが、
しばらくして気が付きました。
要するに9という番号は"苦"に繋がるといって、
世間一般では嫌がる番号なので
きっと私にも嫌がられると思って、
申し訳無さそうな声で電話をしてきたのでした。

仏教の教えでは「一切皆苦」と申しまして、
すべて世間一般のことは苦なんだという教えですから、
この世のことは苦しくて当たり前と思っていますから、
「9番で構いませんよ」と返事をしました。
「9」を「ク」と発音するから「苦」に繋がるわけで、
むしろ「9」を「キュウ」と読んで、
「救」という字を当てはめれば、
坊さんらしい良い数字ではないかと思いました。

日本人は4とか9の忌み数字や忌み言葉を避けたがるようです。
たとえば結婚式などで、
死ぬとか分かれるという言葉は忌み言葉で、
決して使わないようにスピーチをしなければならない
といったことがあるようです。
しかし、これは日本だけの習慣のようでして、
キリスト教の結婚式などを見ますと、
新郎新婦の誓いの言葉の中で
神父さんから「死が二人を分かつまで、
愛し合うことを誓うか」と尋ねられるように、
向こうの国では、いつかは死んで別れる時が来ることを、
しっかりと受け止めているようです。
ところが日本ではそういう言葉を使わなければ、
あたかもそういうことから逃げられるように
思っているのではないでしょうか。

本来、生と死は紙の表と裏のようなもので、
切っても切り離せないものです。
生があるから死があるわけで、
生まれて来なければ死も無いし、
死んでしまえばまた死も無くなるわけです。
それを生のみを欲しがり、
儲かることのみを欲しがり、
幸福のみを欲しがるから、
道理に反して、
何で思うようにならんやらとなるのではないでしょうか。
先ほども出て来ました
「一切皆苦」の原因もこういうところから来ています。

仏法を聞きますと、
次第にそういう自分自身の姿が見えてきます。
そして、そういう自分自身の姿が分かってきますと、
もうそういう心は起こらないようになるのかといいますと、
そうではありません。
やはりそういう心は次から次へと起こってきます。
しかしそういう心が起こっても、
仏法を聞いたお陰でまた凡夫の心が起こってしまったと、
自分自身に目覚めるはたらきが身に備わるのです。
それでそういう心が起こっても、
自然に始末がついてしまうようになります。

一般に宗教といいますと、何か願い事をして、
それをかなえてもらうものだと思っている人が少なくありません。
しかしながら仏教というのは、
本来は仏になる為の教えです。
仏というのは悟った人と言う意味ですから、
真理に目覚めるということが大切なのです。
ですから、
昔から真宗門徒は仏壇に願い事をしてはいけない、
お礼を遂げさせていただくんだと言います。
つまり目覚めさせてもらって
救われたというお礼を申す気持ちでお参りするのが、
真宗門徒のお参りの仕方です。
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