先日、面白い話を聞きました。
それは日本の或るところに、
新しい村ができたそうです。
日本ではたいてい村ができますと、
その中心に神社を建てることが多いのですが、
その村でも中心地に神社を建てたそうです。
そして村の人々が集まりまして、
いったいどのような神様をお迎えしたら良いか
という話合いをしたそうです。
最初のうちは人の道を正しく歩めるような神様を
お迎えしたらどうかというような話だったのですけれども、
一人の人が「そんなしち難しい神様よりも、
人間の欲望をすべてかなえてくれる神様をお迎えしたらどうか」
という意見を言いました。
すると、その他の人々も
「そうだ。そんな神様がいい」ということになって、
人の望みをなんでも叶えてくれる神様をお迎えすることになりました。
最初のうちは村人の望みをなんでも叶えてくれるので、
村人はとても喜んでいました。
ところが、その村に一人の美しい娘が居りました。
そしてたまたまその村に、
その娘をなんとか自分の嫁にしたいという若者が二人現れました。
その娘はどちらの若者にすれば良いのか、
なかなか決めかねていたところ、
一人の若者がその神様のところへ行って、
「どうか自分の方を好きになって結婚させてください」
と頼みました。
するとたちまちその願いは叶えられて、
その娘はそちらの若者の方を好きになり、
二人はめでたく結婚をすることとなりました。
ところが腹の虫が収まらないのは、
もう一人の若者の方です。
村の中で幸福そうな若夫婦を見掛けるたびに、
腹がたって、腹がたって仕方がありませんでした。
ある時とうとう腹に据えかねて、
村の神社に行って、
「どうかあの二人を早く死なせてください」と頼みました。
するとたちまちその願いか叶えられて、
その若夫婦はほどなく二人とも亡くなってしまいました。
その話を伝え聞いた村人たちは、
このままこのような神様を放っておくと、
この先村はどうなってしまうか分からないということで、
今度は村人全員が神社の前に集まりまして、
「どうかもう人間の頼むことは叶えないでください」
と願いました。
するとそれ以後は
神様は人間の言うことを聞かなくなったということです。
実際にあった話ではないでしょうが、
なかなか良くできた話ではないでしょうか。
この前テレビを見ていますと、
七十歳ほどのお年寄りが若い女性レポーターに
「あなたの人生の目的は何ですか」と、
インタビューを受けていました。
するとそのお年寄りは
「わたしの人生の目的は、
自分の欲望を満たすことです」と答えていました。
現代は人間の欲望を満たすために、
次から次へといろいろなものが産み出されています。
いつか将来には人間の欲望が満たされ尽くして、
すべての人間が満足できる世の中がくるのでしょうか。
そんな世の中は決して来ないぞというのが、
先ほどの神社の話の言いたかったことではないでしょうか。
なぜなら、この世の中は一人を立てれば一人が立たずです。
また、朝お腹がすいてご飯を食べて満足しても、
また昼にはお腹がすいてくる。
昼ご飯を食べて満足しても、
また夕方にはお腹がすいてくるの繰り返しです。
これが私たちの姿ではないでしょうか。
親鸞聖人は和讃に
「本願力にあいぬれば むなしく過ぐる人ぞなき」
と仰っています。
これは本願の力にあえば、
満たされない思いで、
むなしい人生を送らなくても良くなるということです。
私たちは生まれてこのかた、
心の底から晴れ晴れとした気持ちになったことがあったでしょうか。
何かもうひとつフッ切れない、
モヤモヤした思いが残っている人が多いようです。
それは私たちは自分がどのような者なのか、
自分自身ではなかなか気が付かないところから来ているのです。
本願の力というのは、
そういう私たちがどのような者なのか
目覚めさせてくれるはたらきです。
自分自身の本当の姿に目覚めさせてもらえば、
モヤモヤしていた原因も解って、
心の底から晴れ晴れとした気持ちを味わえるようになるのです。
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