先日聞いた話ですが
、お肉屋さんの前を通ったら、
悟りを開く事ができたという禅宗の僧侶がいたということです。
我々のような普通の者が、
何百回肉屋の前を通っても悟りを開くことはできないでしょうが、
その僧侶はたまたま肉屋の前を通りかかって悟りが開けたと言う事です。
ある日、その僧侶が肉屋さんの前を通りかかると、
ひとりの客が入っていって、
「おやじ、この店で一番いい肉をくれ」と言ったそうです。
すると、
その肉屋の主人が「うちには悪い肉は無い」と答えたということです。
すこし変わり者の肉屋ですが、
その会話を聞いたとたんに悟りが開けたということです。
考えてみれば、
肉屋にはひき肉やすき焼き用の肉やステーキ用の肉などが並んでいるのですが、
わたし達は良い肉といいますと、
一番値段の高いステーキ用のヒレ肉なんかを思い浮かべてしまいます。
ところが実際には、
ひき肉ならハンバーグにすればおいしいですし、
すき焼き用の肉ならばすき焼きにすればおいしい。
また、ステーキ用の肉ならばステーキにすれば、
これまたおいしいのです。
つまりそれぞれの肉にはそれぞれの用途があって、
どれも悪い肉なんかは無くて、
良い肉ばかりだと言った肉屋の主人は、
正しいことを言ったのではないでしょうか?
それを聞いた禅宗の僧侶は自分の持っている誤った思いに目が覚めて、
悟りを開いたということのようです。
ところがひき肉よりはすき焼き用の肉、
すき焼き用の肉よりはステーキ用の肉というように、
わたし達はいつも何かと何かを比べて一喜一憂しているのです。
この頃は毎年のように各地でいろいろな災害があります。
噴火や水害や地震がたびたび起こっています。
そんな災害が起こる度に耳にするのは、
「どこそこの県の災害は大変やったね。
それに比べて石川県は災害も無くてほんとにいいとこや。」
という会話がなされるのではないでしょうか。
他人の不幸に比べて自分の幸福を喜んでいるのですが、
比べて喜んでいると、
それはすぐに愚痴に変わってしまいます。
「どこそこの○○ちゃんは××大学へ入いったんだって。
それに比べてうちの子は遊んでばかりいたから、
三流大学しか入れんかったわ」と、
今度は比較して愚痴ることになってしまいます。
つまり比較しているかぎりは、
相対的な喜びしか得られず、
すぐに愚痴に変わってしまうようなあやうい喜びなのです。
そんな心からは絶対的な喜びは生まれないのです。
『無量寿経』に「人在世間愛欲之中。独生、独死、独去、独来。身自当之、無有代者」
(人、世間の愛欲の中にありて、ひとり生まれ、ひとり死し、ひとり去り、ひとり来る。
身みずからこれを受け、代わる者あることなし。)という一節がありますが、
まさにわたし達はそれぞれがこの世にたった一人で生まれ、
またたった一人で去っていかなければならない存在です。
そしてそれぞれがすべて境遇も違えば、
持っている才能も違うのです。
自分自身はひき肉なのかすき焼き用の肉なのか、
それともステーキ用の肉に当たるのか分かりませんが、
それぞれの肉にそれぞれの用途があるように、
わたし達にもそれぞれがこの世に生まれて出てきて、
それぞれの役割があるのではないでしょうか。
それを煩悩という比較する目で見て、
高上がりしてみたり、卑下してみたりの日暮しです。
しかし本来はひとりひとりにご縁があってこの世に生まれ出て来て、
他の誰とも比較する必要の無い、
それぞれがかけがえの無い存在なのではないでしょうか。
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