最近あまり耳にしませんが、
「如意」と「不如意」という言葉があります。
「如意」といえば思い出すのは、
西遊記の孫悟空の如意棒です。
普段は耳にしまっておけるくらい小さいのですが、
いざという時はスルスルと伸びて、
それで敵と闘うという棒です。
つまり意の如く自由に伸び縮みするということで如意棒と言われます。
また「不如意」といえば、
手元不如意という言葉がありますが、
手元金が意の如くならない、
つまりままならないということで、
お金の無いことをいいます。
明治時代の宗教家の清沢満之は、
ローマ時代の哲学書である『エピクテトスの語録』で、
この如意と不如意の論理に出会って、
その感動を日記にしたためています。
「如意なるものと不如意なるものあり。
如意なるものは、意見、動作及び欣厭(好き嫌い)なり。
不如意なるものは、疾病、死亡、貧困なり。
己の所作に属するものと、
しからざるものあり。
如意なるものに対して、
吾人は、自由なり。
不如意なるものに対しては吾人は微弱なり。
他の掌中にあるなり。
この区分を誤想するとき、
苦悩をまぬがるることあたわず」と記しています。
わたしたちは病気になったりしますと、
「どうして私にかぎってガンに・・・」とか
「死ぬはずのない私がどうして死ななければならないのか」
ということになってしまいます。
ところが、死ぬはずが無いとか、
健康が当たり前という思い込みそのものが、
不如意なることを如意と思っているということではないでしょうか?
仏教ではそのような謝った思い込みを「虚妄」といっています。
以前に新聞に載っていたのですが、
北海道のお寺の奥さんで、
この虚妄を虚妄であると目覚めた方の記事がありました。
その方は四十二歳で乳ガンを告知され、
四十六歳の若さで亡くなられたのですが、
「ガンはわたしの宝です」という言葉を残しておられます。
夫が「あなたはガンが宝だというが、
それはどういうことか?」と尋ねると、
彼女は「じゃあ、お父さん、ガンはあなたが作るの?
自分で作るものなの?」
「いいえ。私なんか作るものじゃないよ。
ガンになったら、それは与えられたものだよ」
「そうでしょ、私が望む、望まぬにかかわらず、
与えられたものでしょう。
賜ったものでしょう。そこまでは事実でしょう」
「うん。そこまでは分かった」
「じゃあ、その賜ったものを厄介なもの、
忌むべきもの、嫌いなものとして、
それを捨てるか、それを有り難いものとして、受け止めるか、
それは私の心の問題でしょう。
自分自身の問題でしょう。
私は有り難いものとして、
私の人生に"目覚め"を与えてくださったものと受け止めます。
だから、宝物と言ったんですよ」と、答えたという。
また彼女の詩集には、
「ガンといわれて/死を連想しない人がいるだろうか/
医学の進歩した現在/死と直面できる病に/
なかなか出会うことができない/
いつ死んでも不思議でない私が/
すっかり忘れてうぬぼれていたら/
ありがたいことに/ガンという身をもって/
うぬぼれを砕いてくれた/
どうしようもない私を思って/この病をくださった/
おかげさまでおかげさまで/
自分の愚かさがすこしずつ見えてきました」
と書き残されています。
ガンになって初めて、
如意だったとおもっていたものが、
実は不如意だったと気付かされ、
自分の抱いていた虚妄に目覚めた気持ちが伝わってきます。
しかし同時に、
畑の野菜が人間の力によって作られるのではなくて、
太陽や土や水によって育まれるように、
自分のいのちもさまざまなはたらきに支えられて、
今こうしてあるという事実に思い至ったのではないでしょうか。
彼女の詩集の最後は
「念仏は、私に、ただ今の身を納得して、
いただいてゆく力を与えてくださった」
という言葉で閉じられているそうです。
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