煩悩具足の凡夫
先日、近所のスーパーマーケットに行きましたら、
見知らぬ奥さん同士の会話が耳に入ってきました。
ひとりの奥さんが
「あーら、久し振り。元気にしとったかいね?」
と聞いたところ、もうひとりの奥さんが
「おかげさんで、元気で感謝しとるわいね。」
ということでした。
すると先ほどの奥さんが
「ところで、おばあちゃんはどう?」と尋ねましたところ、
「おばあちゃんけ。おばあちゃんなら、私よりまだ元気や。
元気過ぎて困っとるわいね。」という答えでした。

みなさんもこのような会話なら
一度や二度は聞いたことがあるのではないでしょうか。
ところが、わたしはこの会話を聞いてオヤッ!と思ったんです。
というのは、
この奥さんは自分が元気なのは感謝しているけれども、
姑さんの元気なのは困りものなんだと言っているわけです。
本来ならば自分が元気で、
家族の者も元気ならば喜ぶべきことなのに、
それが素直に喜べない。
これは一体どうしたことなんだろうと思っていましたら、
親鸞聖人の仰ったことを書き残された
『歎異抄』という書物な中の一節を思い出しました。
それは「よろこぶべきこころをおさえてよろこばせざるは、
煩悩の所為(せい)なり」という言葉です。
煩悩というのは自分に執着するところから起こる、
つまり自分の都合を考える心ですから、
自分の都合にとっては、
自分の元気なのは喜べるけれども、
姑さんが元気なのは困りものなんだということです。

この一節の出てくる歎異抄の第九条では、
弟子の唯円が親鸞聖人に尋ねます。
「念仏を申すけれども、
躍り上がるほどのよろこびの心が起こって来ないし、
また急いで浄土に行きたいという心の無いのはどうしたこたなんでしょう」
と尋ねます。
いつもお側に仕える弟子がこのようなことを聞けば、
「お前は一体わたしの話を日頃からどのように聞いているのか?」
としかられそうですが、親鸞聖人はそのようには仰いません。
親鸞聖人は
「親鸞もこの疑問があったけれども、
唯円坊も同じこころであったか」と答えます。
「よくよく考えてみれば天におどり地におどるほどによろこぶべきことを、
よろこばないことで、
いよいよ浄土往生は確実と思うべきです。
よろこぶべきこころをおさえて、
よろこばせないのは、煩悩のせいです」と、
ここで先ほどの言葉が出てまいります。
そして「仏は以前より存知しているように、
(わたしたちを)煩悩具足(身に備わった)の凡夫である
と仰っておられることであるから、
他力の悲願、つまり念仏の教えはこのような
(煩悩具足の)わたしたちのためと知られて、
いよいよたのもしく思われます」と答えておられます。

わたしたちはよろこぶべきところで、
なかなか素直によろこぶことができないのではないでしょうか。
また「他人の不幸は蜜の味」という言葉もあるように、
他人の不幸を見て悲しむべき時にも、
ひそかにほくそえんでしまって、
悲しめなかったりするのも煩悩のせいです。
また、
わたしたちの苦しみはいつも外からやって来るように思っていますが、
わたしたちの煩悩は家族の元気なことさえも、
時には苦の種にしてしまいます。
よろこぶべき時によろこべなかったり、
また悲しむべき時に悲しめなかったりした時に、
やはり仏さまのご存知のとおりの煩悩具足の凡夫やったなと目覚めて、
そのような者をこそ弥陀の力で救ってくださるのだとたのもしく思って、
念仏申すのが、真宗の信者の姿なのではないでしょうか。
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