その店は、小さなビルの2階にある小さなBARである。
カラオケもなければツマミもない。あるのは洋酒と静かに流れるアメリカン・ブルース。
いつ行ってもバーテンダーがひとり本を読んでいるか、ギターを弾いているかどちらかである。
あと数年で三十年になろうとしているその店は、タバコのくすんだ香りと、ウィスキーの香りがしみついてゆく。
そして一個の人間としてのバーテンダーが居ても、居なくてもどこか人の香りがするものである。
男の酒場独特の空気、とでも言っておこう。といっても、花はほしい。
その空気を壊さない程度のただよう香水の香りはいいものである。
時間は夜の十時、L字型のカウンターの奥からイスひとつ置いて、三十(歳)を少し過ぎたくらいの女性がひとりゆっくりカクテルをすすっている。
彼女が飲んでいるのはダイアナ・カクテル。ジンとベルモット。これだけなら華やかな中にも男のハードさを思わせるマティニになるが、これはチョッと違う。
それにアブサンをチョッと垂らす。すると妖艶な香りと“子どもは飲んじゃダメよ”と言ってくれているような不思議な味になる。
彼女が好んで一杯目に注文するカクテルだ。
何年か前まではよく来てくれていたが、ここ2〜3年はくるたびに「マスター、元気?」といったところだ。
「マスター、ダイアナ・カクテルはちょっとしたお話つきだと言っていたけど教えて」という。
「たいして面白い話しでもありませんが、お客とバーテンの会話です」と言いながら、
― ダイアナに車をせがまれましてねえ とお客
― で、買ってやったんですか?
― いいや、しかたがないのでダイヤのネックレスで誤魔化したよ
― 車も高いでしょうが、ダイヤもたかそうですねえ
― そうだろうね、しかし車には“イミテーション”は無いからねえ
「こんなところでどうでしょう。ダイアナという響きにはどこか我儘なお嬢様というイメージがあるのかもしれませんね、イギリスでは」
「フ〜ン、私も彼にイミテーションでもいいから買ってほしかったなあ、ダイヤのネックレス」
そこへ静かにドアが開き、男がひとりやってきた。そして彼女を確認すると、
「あれっ、ヨーコじゃないか。ひさしぶりだなぁ」
と言いながら少し躊躇するように見えたが、彼女の隣へ掛ける。
「お元気そうね、お変わりない・・・?」
「まぁ、あるとすれば結婚したことぐらいかな。まあいいやマスター、ギムレット」
そしてカチンとグラスとグラスの触れる音がする。
「むかしは三人でよく飲んだわねえ。貴方はギムレット、私はジン・ライム、マスターはジン・リッキー。この三つのカクテルは兄弟みたいなカクテルなのよねえ、どれもジンとライムで。久しぶりに三人で飲みましょうよ」
それぞれゆっくりグラスを口に運びながら、何年か前の空気がよみがえる。
「それにしても昔から君はつよかったなぁ、いつも最初につぶれるのはオレ。たまには君がつぶれる姿を見たかったよ」
「しょうがないじゃない、先につぶれるんだもの。マスターおかわり」
それから何杯目かのオカワリの後、彼はチラッと腕時計に目をやると、
「オレ、つぶれる前に帰るわ明日早いし、じゃあな・・・またいつか」
彼が出て行くと、彼女は手に持ったグラスを見つめながら、
「ここって変な店ね、別れた夫と自然に話ができちゃう」
酒と人と場、酒場とはそういうものだとバーテンは思っている。
余計なことを言うものでもないし、知らないふりをすればいいものでもない。
「おかわり、マスターも付き合って」
バーテンは新しいグラスをカウンターにふたつ置くと、大き目の氷を一個ずつ入れる。
そして氷の上にジンをゆっくり落としてゆく。