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(C)2003
Somekawa & vafirs

金沢 BAR <主のひとり言>

衒学的・・はて?

久しぶりに数冊続けて松本清張をよんでみた。
相変わらず、読ませる。
清張のこと、ほとんどの日本人は何冊かは読んでおられると思う。
僕も例にもれず、代表的なものは読んでいるとは思うのだが、読んだとはいえあまりにも作品数が多いゆえ、ほんの一部になるだろう。
代表作は「砂の器」と僕は思っているのであるが、これも所詮数少ない僕の読んだ中での事ではある。

以外にも芥川賞を貰っているが、そんな事は松本清張にとってはどうでもいいことだろう。
時代がちょっと違えば、逆に芥川龍之介が「松本清張賞」を貰う立場だったかもしれない。
まぎれもなく「天才の中の天才」と言っていいだろう。
とにかく膨大な作品を書いている。
当然常に複数の連載を持ち、一番多い時はなんと!、「17作品」を同時進行で書いていたそうである・・・。
それも雑文を書きなぐっていたのではない。
その証拠に、その時のひとつがあの名作「ゼロの焦点」であったらしい。
ただただ驚くしかない。
天才は違う、と軽く言うには余りにも凄すぎる。

ふと思うのであるが、ひと月に17の連載を抱える(書く)ということは一日置き(以上)に締め切りが来る、という事になる。
毎日時間を区切り、一日に複数の作品を書いていたのだろうか?。
それとも毎日違う作品に一局集中して書いていたのだろうか?・・・いらぬ興味がわく。
ともかく全集が「66巻」出ているようだが、それでも全てではないらしいので、いかに凄い作品数かという事がわかる。

ところで以前は本は本屋さんで買い、書棚に並べていたものだが、最近は買う事はなくもっぱら図書館のお世話になっている。
何らかの文献類ならともかく、小説の場合一度読んだ本をまた読み返す、などという事はそうそうない。
ではなぜ書棚に、というと将来我が子供たちが、さり気なく書棚から本を引っ張り出し適当に読んでくれたら“いいな”と思っていたのである。
が、現実はそう理想通りにいくものではない。
息子も娘も小学にあがり、中学、そして、高校生となったが、ついぞ書棚から本を手にする姿を見たことがない。
その頃からである。「本は買うものではなく、借りるもの」とした。
幸い市立図書館も県立も近く、非常に重宝している。
我が蔵書であるが、定期的に行く病院のお抱えの薬局で「古本の寄贈」を募っており、待合の一角に置き「百円以上」で患者に買ってもらい、 何がしに寄付しているようなので、僕も文庫本を段ボール箱二つぐらい寄贈さして頂いた。
(余談だが、我が書棚に一切手を延ばした事がない「息子」が何の巡り合わせか、現在本屋に勤めている。そして本を読むようになった・・・かどうかは分からない)

つい先ごろ水上滝太郎の「果樹」という作品を読んだ。
ある貧乏夫婦が都会を追われ、田舎に移り住んだ。
果樹に囲まれ、静かでいいところなのだが、いかんせん「虫」が多い。
都会育ちの妻君は虫は大の苦手なのだが、亭主は大好きときている。
ある日の二人の会話である。

「いくらあなただってカマキリはいやでしょう」
「あいつはいい奴だよ、時代遅れの武器をもって威張っているくせに、どこかにひょうきんな所がある。虫でいやなものは、まずないなあ」
「あらいやだ、あたし蛇をみるとぞっとするわ」
「蛇はきれいだ、地面を日の波のようにうねっているところなんか、人間のダンスなんかより、よっぽどいいや」
「あなたって、変な人ねえ・・・」と夫婦の会話はつづく・・・
ということだが、カマキリを「時代遅れの武器をもって、威張っている・・」
蛇を「地面を日の波のようにうねっている・・」
どちらも読んでいてニヤッと納得しながら、なんだか楽しく読めてしまう。
さすが小説家、上手く表現するものだと感心するしかない。

これとは関係がないが先日新聞の「詩評」を観ていると文中に「衒学(ゲンガク)的な臭みが少しもない」という箇所がでてきた。
「衒学」・・・ン、なんこっちゃ、と思いつつ辞書をめくってみると載っていた。
「衒学的」=学問のある事をひけらかし、自慢する事、とあった。

学問のない僕には、まったく縁のない「言葉」であった。

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