金沢市野町公民館
野町の歴史

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佐久間盛政が加賀の一向一揆を平定した後、本願寺の支坊であった尾山御坊を居城とし尾山城と称したが、天正一一年(一五八三)賎が嶽の戦いで敗死すると、前田利家は加賀国の石川・河北二郡を加封されて、能登の小丸山城から尾山城に入城した。


文禄元年(一五九二)利家の子・利長(二代藩主)は父の命を受けて尾山城を改築し、地名も金沢と改称したのである。


文禄三年(一五九四)に犀川・浅野川の両大橋が架け替えられてからは、犀川以南の北陸街道沿いの町並みは、急速に発展を遂げていった。しかし、藩政初期の頃は、この町並みから東側では灌漑の便が悪く、未だ一面の小松原で、民家も耕地なく、見渡す限りの原野であった。このことは微妙公(みみょうこう、三代藩主・利常)御夜話集や後藤家文書、或いは三壺記(みつぼき)などによって窺い知ることができる。また、処々に清冽な泉が湧き出ていたところから広く泉野と呼ばれ、これを略して単に「野」と呼んだという。野町という地名の由来も、このことに起因すると考えられるのである。


元和五年(一六一五)に一国一城制が敷かれると、それまで城下に散在していた寺院を、泉野と卯辰山麓の二カ所に集め、周辺には高禄の藩士の下屋敷や与力の屋敷、無数の足軽組地などが配置され、金沢城の防衛拠点が構築された。それ以来、寺院の集合が図られた周辺を広く、泉野寺町と呼ぶようになった。


現在の野町の地域は、この寺院群の殆どを包含しており、明治初年の神仏分離令によって、廃寺や合併、或いは移転等が相次ぎ、寺院数は減少したものの、それでも今日、地域内に現存する寺院は実に五一カ寺を数える。そうした古い町並みのたたずまいは、金沢市の伝統環境保存条例(景観条例に変更)によって、地域面積の半分以上が指定区域となっている。


明暦元年(一六五五)から、当時石川郡押野村の十村役(とむらやく、他藩の大庄屋に相当)であった後藤太兵衛(当館三代館長・後藤為次氏のご先祖)が、私財を以って長く不毛の地とされていた泉野の開墾に当たり、続いて犀川上流から用水を引くと、やがて各地に集落ができ、遂にその数は八カ村にも及んだので、これを泉野八カ村、略して「野八カ」と呼んだのである。


元禄年間(一六八八〜一七〇四)の頃には、北陸街道沿いの町(旧・野町一丁目〜六丁目)は本町の資格が与えられ、金沢南部の中核的存在として、長く地域の発展に貢献してきたのである。






 (野町公民館 『野町公民館五十年の軌跡』 2002年(平成14年)6月1日発行)
 (第一部 序章   第一章 地勢と環境と歴史と   A地域の歴史概要(p.4〜p.5)から引用)



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