魏志倭人伝を解析しよう?

 邪馬台国は何処にあったのか?先人の血のにじむ努力・精進にもかかわらず、未だにその場所を特定できないことが一番の謎である。
 これは、倭人伝の記述そのものを根本から考え直さないといけないのではないだろうか。
 私は、倭人伝を最初に読んだ時、これは九州にあると何故か直感したのです。それが現在の私の邪馬台国に繋がっています。
 現在、邪馬台国論争は近畿奈良地方が有力視されつつあります。それは考古学からの検証が重要視されているからなのですが、よ〜く考えてみると近畿説の根拠を集約してみると、その根拠は「三角縁神獣鏡」にあるのです。逆に言えば「三角縁神獣鏡」を卑弥呼の鏡では無いと照明すれば、邪馬台国近畿説は全面崩壊となることは明白でしょう。最近新聞でやかましく報道されている奈良纏向地方の古墳が3世紀前半の構築であろうとなかろうと、それが邪馬台国であったことの証拠にならないと思いますので、やはり元凶は記年鏡でしょう。

 邪馬台国が九州にあったことを探っていきましょう。
 まず、道里記事は全く架空の数字であって信用できないすれば・・・
 この距離の値は何なのだろう?ある人は「短里」と言い、またある人は「長里」言う。
 しかし、これは1里が何キロと置き換えなくては意味をなさないのだろうか。
 そのヒントは狗邪韓国から対海国間の千里、対海国から一大国間の千里、また一大国から末廬国間の千里です。
この間の実距離は、誰が見ても同じ距離ではないことが判ると思います。当時の渡海に要した船は、手漕ぎ式の大型船を考えています。韓国の沿岸から対馬の島影の見える天気の良い夏のある日に船出をし、その目的地を目指したのでしょう。日がある内に到着しようが、漆黒の夜に到着しようが、つまり一日一航程であって、その距離が千里と著していると理解するのが