二十人町町会

町名が藩政時代、足軽二十人組の組地であったことに由来する。
このことを詳述すると侍帳に元禄6年(1693)小立野二十人町や小立野足軽町二十人町と記載されている。

また延宝年間(1673〜1683)の金沢地図に明組(あきぐみ)足軽17人、明与(あきぐみ)足軽4人、地子明組足軽8人内小頭1人と記載されている。

のち持筒足軽の組地(屋敷)になったと金沢古蹟志は伝えている。

明治4年(1871)二十人町1番丁となった。明治に入ってからの二十人町は1番丁から5番丁まであった。
2番丁はもと御坊町(慶恩寺門前)、3番丁はもと公事場(訴訟)町、4番丁はもと金屋町、これらを統合して二十人町五番町(1番丁から5番町)となった。

昭和39年(1964)4月の住居表示の改正で二十人町は消滅し、現在は石引2丁目となっている。